2016年11月07日

9月 蔵のまち、喜多方にちいさな秋を訪ねて


会津が誇る北の歴史商都、
蔵のまち、喜多方。

2016年9月某日

01雄国農園s.jpg09雄国農園s.jpg03雄国農園s.jpg
04雄国農園s.jpg05雄国農園s.jpg06雄国農園s.jpg07雄国農園s.jpg
12雄国沼s.jpg10雄国沼s.jpg13雄国沼から喜多方s.jpg

 近年、世界遺産でも話題の“産業遺産”をご存知だろうか。“産業遺産”とは、地域活性化の新しい資産として、日本が10年程前からその保全および活用に取り組んでいるプロジェクトだ。対象となる建物は幕末から戦前にかけての工場跡や炭鉱跡等が多い。会津盆地の北に位置する喜多方市もまた“登り窯”をはじめ、市内に点在する蔵座敷等の14の建物が国の“近代化産業遺産群”に選定されている。
 かつて米沢と会津城下を結ぶ米沢街道の宿場町として栄えた喜多方は、良質の米と豊かな水資源により酒や味噌、醤油等の醸造業が発展し多くの蔵が建てられた。外気温の影響を受けにくく耐火性に富む蔵は、やがて座敷蔵等の住居にも利用され、いつしか商人たちの富の象徴となった。喜多方では蔵を建てる事が一人前の証とされ、市内には今なお4,000棟もの蔵が軒を連ねている。季節は芸術の秋。今回の旅のテーマは会津エリアが誇る、もうひとつの産業遺産巡りだ。
 まずは、会津河東ICから車で約15分。雄国沼の近くにある「雄国農園 百日紅館(さるすべりかん)」で腹ごしらえ。ここは喜多方市街地を一望する眺望が評判の味処だ。
 標高約500m。店は長閑な田畑が続く一本道の先、会津盆地を見渡す獅子沢地区の高台にある。そこで私たちを待っていたのは、私たちの想像を超える壮大な絶景!遠く飯豊連峰を背景に波打つ稲穂が海のように横たわっている。その開放感に胸がすく。
 店の自慢は地元の蕎麦粉で毎朝手打ちする十割蕎麦。早速「五種そば」(1,150円・こづゆ付)と「あられ天ぶっかけそば」(1,000円)を注文。素晴らしい眺めとともにいただく蕎麦は、十割とは思えない滑らかな喉越し。広い敷地内にはポニーやヤギ、ウサギ小屋も見え、農園らしいのんびりとした雰囲気が漂う。伺えば、雪景色もまた格別とのこと。「雄国農園 百日紅館」は春夏秋冬、眺めもその味わいも、慌ただしい下界を忘れさせる喜多方の秘蔵スポットだ。
 帰りは店の方にすすめられ、そのまま「雄国沼」へ。次第に細くなる山道に不安を覚えながら進むこと約30分。神秘的な美しさをたたえた沼を見下ろす金沢峠に到着!約50万年前の火山活動によって誕生した雄国沼は、標高1,000mを越える高原に佇む湖沼のひとつ。ニッコウキスゲをはじめ、雄国沼湿原植物群落として天然記念物にも指定されている湿原には散策路も見え、夏の美しさを彷彿とさせてくれる。

14三津谷レンガ蔵群s.jpg15三津谷レンガ蔵群s.jpg16三津谷レンガ蔵群若菜家s.jpg
21三津谷レンガ蔵群若菜家s.jpg20三津谷レンガ蔵群若菜家s.jpg22三津谷レンガ蔵群若菜家s.jpg23三津谷レンガ蔵群赤れんがラーメンs.jpg

異国情緒漂う、三津谷煉瓦蔵群。
人々の誇りが護る登り窯の伝統技。

 続いて向かった「三津谷煉瓦蔵群」は、市街地郊外にある小集落。ここはヨーロッパの片田舎を思わせる独特の“赤煉瓦”の蔵の意匠で知られている。私邸である建物は今なお住民が居るが、現在は「若菜家」が有料(大人一人200円)で、内部を一部公開している。母屋の住人に声をかけると丁寧にも敷地内の蔵を案内してくださった。
 三津谷の蔵に使われる煉瓦はすべて近くの窯で焼かれた地元産。窓の形や軒下仕上げなど、蔵のデザインは家ごとに異なる。かつて農作業に使われたというひときわ大きな蔵は、2007(平成19)年、経済産業省認定の産業遺産に指定。階段箪笥を登った2階の広い座敷には美しい調度品や古道具、古陶類が静かな時を刻んでいた。
 現在、10代目だという若菜家は今も農家で、米や野菜、ぶどう等を販売している。敷地内には大正時代に建造された現役の味噌蔵もあり、自家栽培米で仕込んだ手作り味噌は、塩分控えめで旨みの強い美味。例年、注文をいただく常連さんも多いのだという。
 帰り際には奥様のご厚意で、お土産のぶどうをいただき連れも私も恐縮。ちなみに集落の一角には、同じ煉瓦蔵造の人気ラーメン店「赤れんが」もある。現地に向かう際の目安にしていただきたい。

24岩月夢想館s.jpg25岩月夢想館s.jpg27岩月夢想館s.jpg28岩月夢想館s.jpg
32三津谷煉瓦窯s.jpg33三津谷煉瓦窯s.jpg34三津谷煉瓦窯s.jpg37三津谷煉瓦窯s.jpg

 そこから目と鼻の先の岩月地区には、廃校となった大きな木造校舎もある。「岩月夢想館」と名付けらた建物は、現在は生涯学習施設になっているようだ。隣接するコミュニティーセンターの方にお願いすれば、校舎内も拝見できる。古びた匂いがどこか懐かしい内部は造りも当時のまま。童心に還る想い出の宝庫だ。
 産業遺産に認定された「三津谷の登り窯」は、そこからすぐ。良質の赤土と大量の薪が手に入るこの地では、明治から大正にかけて煉瓦が盛んに造られ、これが喜多方の蔵の建材として利用されたという。訪ねた日はあいにくの定休日(水曜日)だったが、人影を見つけお願いしてみたたところ、なんと見学がOKに!聞けば、年に一度(!)の窯入れの準備中だったらしい。
 幅約5.1m、奥行約18m。階段上に10段連なるこの登り窯は、日本で唯一、現在でも昔ながらの薪による煉瓦を焼成している貴重な遺構。雪国らしく、ここで造られる煉瓦は凍害防止のため一度素焼きした後、さらに施釉して二度焼きされる。若菜家で見てきたばかりの飴色を帯びたガラス質の煉瓦が頭をよぎる。聞けば若菜家は1890(明治23)年、この地に登り窯を開いた瓦職人の樋口市郎に出資し、独自の煉瓦焼成に尽力してきた家柄だという。
 窯は技術保存のため現在もボランティアや有志によって、毎年秋に火入れを行っている。この作業は、なんと一般人でも事前に申し込めば気軽に参加できる。興味のある方はぜひ、問い合わせを(詳細はコチラ)。
 作業の手を止めて説明してくださったスタッフの方に礼を申し上げ、探訪記念に“やっこぼうし”(500円)を購入。瓦を立てて焼成する際、倒れないよう瓦と瓦の間に据える親指程の土塊は、役目を終えた後、愛らしい顔が描かれ、文字通り受験生や年配者に“転ばない”縁起物の土人形として喜ばれているという。

38瀧の湯s.jpg39瀧の湯s.jpg47瀧の湯s.jpg
43瀧の湯s.jpg42瀧の湯s.jpg44瀧の湯s.jpg45瀧の湯s.jpg46瀧の湯s.jpg48瀧の湯s.jpg49瀧の湯s.jpg

初秋をまとう湯宿の清涼。
眺めと戯れる豊穣の季節の寛ぎ。

 慌ただしかった一日をそっと包む日暮れ。川にせり出した宿の足湯でのんびりと流れを見つめる湯上り。水面から吹き上げる風もどこか清涼な秋の香りだ。
 豊穣の季節を先取りしたメニューも加わった食膳に、今夜も迷いながら「廣木 泉川」の地酒をセレクト。吟味した和酒のマリアージュに酔いしれる。今日は川向こうの能舞台が内風呂からも望める風流な部屋だ。この余興を楽しまない手はない(笑)。
 ひと休みを挟んで向かった「天寧温泉」は、子供連れやグループでの利用にも最適な、広々とした間取りと鄙びた情緒が魅力の貸切風呂だ。大きくとられた窓からはライトアップされた川の景色が目前に広がる。浴室の明かりを落とし、暗闇に浮かび上がる幻想的な眺めをふたり占めする愉悦。これもまた、貸切ならではの贅沢だろう。
 地野菜によるカラフルな惣菜もお目見えした朝食ブッフェには、リクエストで復活したという「幻の喜多方ラーメン」も(!)。したり顔で嬉々とほおばる私に「これから喜多方でも食べるのに…」と、連れも苦笑(笑)。

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56長床s.jpg60長床資料館s.jpg61甲斐本家蔵座敷s.jpg62甲斐本家蔵座敷s.jpg66甲斐本家蔵座敷s.jpg68甲斐本家蔵座敷s.jpg
67甲斐本家蔵座敷s.jpg72甲斐本家蔵座敷s.jpg73甲斐本家蔵座敷s.jpg74甲斐本家蔵座敷s.jpg

圧倒的な存在感で時を刻む
大拝殿と蔵座敷の風格を訪ねて。

 会津から喜多方市街までは車で約40分。しかし、その前にぜひ訪ねておきたい場所がある。「新宮熊野神社」にある「長床(ながとこ)」だ。平安から鎌倉時代初期の建立と伝わる「長床」は、仕切りや建具のない寝殿造りの大拝殿で、国の重要文化財に指定されている。
 社務所で拝観料(大人一人300円)を支払い、まずは念願の建物をじっくりと見学。折から降り出した雨のせいか、拝殿は滴る緑に縁どられ厳かな風格をまとっている。傍らに佇む樹齢800年の大銀杏は、まさに聖地を守る番卒のようだ。境内の一角には宝物殿もあり、獅子に騎乗した“木造文殊菩薩騎獅像”など、見応えのある文化財が由緒ある寺の歴史を物語っていた。
 市街地に戻り向かった「甲斐家住宅」は、蔵のまち喜多方を象徴する必見スポット。大正時代に建てられた建物は壮麗な蔵座敷で知られ、築山のある庭園や美術品など、かつて酒造業や製糸業で財を成した当家の暮らしぶりがみてとれる。建物には今なお子孫の方が居住し、見学は一部のみで例年、期間限定。公開中は場内にボランティアガイドが常駐し、見どころを丁寧に解説してくれる。
 入口で入館料(大人一人400円)を支払い、順路に沿って内部を見学。中でも完成まで7年もの歳月を費やしたという51畳の蔵座敷は圧巻。四方柾の檜や紫檀、黒檀、屋久杉、鉄刀木(たがやさん)など、選りすぐりの銘木が惜しげもなく使われている。現在、土産処として営業している店蔵には、これまた一本の欅の大木を削り出して造られた珍しいらせん状の“吊り階段”が、いまなお堅牢な存在感を放っていた。

79山中煎餅本店s.jpg80山中煎餅本店s.jpg83安勝寺s.jpg76喜多方街中ふれあい通界隈s.jpg
85喜多方おたづき蔵通りs.jpg89馬車の駅s.jpg90蔵屋敷あづまさs.jpg92蔵屋敷あづまs.jpg
91蔵屋敷あづまさs.jpg95喜多方田園s.jpg

ひとは街。街はひと。
喜び多き地で出会うもてなしの宝。

 ぶらり立ち寄った「山中煎餅本舗」では、七輪による煎餅の手焼き(500円・煎餅のお土産付)体験も満喫。程近くにある珍しい蔵造りの「安勝寺」は、大火で旧本堂が焼失した戒めから、火災に強い土蔵造りに建て替えられたものだという。喜多方では郵便局や信用金庫、公衆トイレに至るまで、蔵の意匠を生かした建築物を随所で見かける。まちの景観を守る人々の意識の高さに改めて感じ入る。
観光蔵馬車の待機所でもある「馬車の駅」があるのは、明治中期頃建築の蔵が多く残る“おだづき通り”だ。現在、残念ながら蔵馬車の営業は休止中。蔵座敷を改装した敷地内の店蔵の暖簾をくぐり地酒の品定めをしていると、ここでもまた気さくな店の方から声をかけられ、興味深いラーメン指南をいただく(笑)。
 道を挟んだ少し先にある食事処「蔵屋敷あづまさ」の一角には、無料で見学できる「うるし美術博物館」もある。土産処も併設された館内は、普段遣いの手頃な漆器から職人が手掛けた美術品まで並び、目の保養にもおすすめ。店は大正時代、福島一の大米穀商と言われた松崎家の蔵屋敷を改築した豪壮な造り。もちろん、地粉100%の手打ち蕎麦や田楽も絶品だ。
 景色に味わいに、喜多方の街あるきは、とにかく遊びどころに事欠かない。加えて訪ねた先々で受けた熱意あふれる人々の親切な接客と楽しい話談は、まさに“喜び多きまち”の実体験(笑)。会津人らしい、故郷への誇りと人情を感じる出会いだった。
 旅の帰り道、感傷的な秋の夕暮れに目を馳せれば、辺りはトンボたちが楽しげに群れ飛ぶ唱歌の世界。稲穂も黄金色の舞台を整え、まもなく里を染め上げる真打ちの登場を、頭を垂れて待っている(笑)。



◆番外編 《喜多方ラーメン紹介》
 日本三大ラーメンの一つに数えられる喜多方ラーメン。その特徴は太目の平打ちちぢれ多加水麺に、さっぱりした醤油味のスープだが、近年では多彩なスタイルの店も登場している。メニューにも小食な女性や子供にもうれしいミニラーメンにはじまり、“朝ラー”と称し、早朝からラーメンを提供する店もある。多彩なそのスタイルに、ぜひ自分好みのタイプを探していただきたい。参考までに、我々が今回、喜多方で訪ねた店をここにご紹介する。

↓喜多方老麺会食べ歩きガイド
老麺会マップ.jpg

●あべ食堂 
地元人もよく通う名店。とんこつや煮干しによる醤油ベースのこってりと濃厚なスープに喜多方らしい中太ちぢれ麺がよく絡む、昔ながらの中華そば(650円)。昼時や休日は行列必至。訪れる方は時間に余裕をもってどうぞ。
住所/福島県喜多方市緑町4506
TEL/0241-22-2004
営業時間/7:30〜15:00 ※スープがなくなり次第終了
定休日/水曜日(祝日の場合は営業)
駐車場/有
阿部食堂01s.jpg阿部食堂03s.jpg

●上海 
ラーメン店が軒を連ねるマーケット通りに位置。喜多方で二番目に古い老舗。中国でラーメンを学んだ初代女性店主が1948(昭和23)年に創業。以来、代々女性店主が独自の味作りにこだわっている。澄んだスープはコクがあり、チャーシューとの相性も抜群。写真は店のおすすめ、チャーシュー麺(800円)。
住所/福島県喜多方市字二丁目4650
TEL/0241-22-0563
営業時間/9:30〜16:00 ※12月〜3月は10:30〜15:00
定休日/木曜日
駐車場/有
上海01s.jpg上海03s.jpg

●塩川屋
エゴマ豚の農家と米農家が共同経営する店。店の看板メニューは潮(しお)ラーメン(650円)。シジミのみでとったクリアなスープは、上品な塩味にシジミの旨味、ほのかな甘味が漂う奥深さ。チャーシューにはエゴマ豚を使用。平日の昼はラーメン注文の方にごはん1杯が無料(!)という嬉しいサービスも。ラーメンの他に丼物やメンチカツも人気。
住所/福島県喜多方市字1-4545
TEL/0241-24-2520
営業時間/11:00〜14:00 18:00〜22:00
定休日/月曜日(月曜日が祝日の際は営業、翌火曜日休み)
駐車場/有
塩川屋01s.jpg塩川屋04s.jpg







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2016年05月18日

4月 春爛漫、鶴ヶ城さくらまつりと小田山歩き


花越しの人。人越しの花。
春爛漫、鶴ヶ城さくらまつり。

2016年4月某日

01県立博物館桜s.jpg04鶴ヶ城二の丸入口桜s.jpg05鶴ヶ城二の丸入口桜s.jpg
07鶴ヶ城二の丸廊下橋桜s.jpg08鶴ヶ城二の丸桜s.jpg10鶴ヶ城麟閣桜s.jpg
12鶴ヶ城荒城の月丘よりs.jpg16鶴ヶ城花見風景s.jpg23鶴ヶ城帯廊側より桜s.jpg

 天守閣再建50周年の2015年。鶴ヶ城公園に特別な想いで植樹された桜の苗木をご存知だろうか。その名も「容保桜(かたもりざくら)」。会津藩最期の城主名を冠したこの桜は、京都府庁旧本館中庭でオオシマザクラとヤマザクラの特徴を持つ新種として発見された。旧本館はかつて京都守護職であった容保公の会津藩上屋敷があった場所で、その縁で寄贈されたものだという。
 気付けば春暖の候。会津は例年より一週間ほど早い開花で、市街は「鶴ヶ城さくらまつり」の真っ最中。街は人と花であふれかえっていた。
 今日は三の丸にある県立博物館前の駐車場(無料)に車を停め、そこから歩いてまつり会場へ。駐車場脇には高遠藩藩主だった会津松平家の祖、保科正之にちなみ、長野県の伊那高遠城址から贈られたコヒガンサクラが早くも散り始めていた。ソメイヨシノより一足先に春を告げるこの桜はやや濃いピンク色で、隣接する旧陸上競技場の白いソメイヨシノとあいまって、華やかなグラデーションを描いている。
 連日の温かさで、辺りは豪華な満開状態(!)。その姿は優雅というよりある種、凄みさえ感じる迫力だ。中でも高さ20mもの石垣を這うようにしなだれかかる桜の古木と、水をたたえた深い堀に朱橋が架かる二の丸付近は、絵巻さながらの眼福。さくらまつりに訪れるなら、変化に富んだ景色が楽しめる三の丸、二の丸からのアプローチをぜひ、おすすめしたい。
 橋を渡りまずは「月見櫓」へ登り、以前、観光ボランティアの方に教えていただいた茶室「麟閣」と天守閣を望むスポット(詳しくはこちらのブログを参照)から、念願の景色を鑑賞。そこから帯郭沿いをゆるゆる歩いて本丸前の広場へ。
 天気も味方した花見日和とあって、会場は老いも若きもみな、視界を覆う絢爛な花の競演に圧倒されている。寿命を遥かに超える樹齢100年以上のソメイヨシノが1,000本残る鶴ヶ城は、見応えも充分だ。こまめな手入れなくしては生きられないソメイヨシノは、人に寄り添う桜だ。春の空に映える花と赤瓦の大天守を仰ぎながら、歴々の“桜守”たちの誇らしいまなざしを、目の前の景色に辿る。

18鶴ヶ城容保桜s.jpg06鶴ヶ城二の丸桜s.jpg26鶴ヶ城二の丸土手桜s.jpg

 「容保桜」は、賑わう公園の一角にひっそりと咲いていた。花は柄が長くヤマザクラより大輪で、香りのよいオオシマザクラ系だという。苗木とあって、枝ぶりはまだひ弱だが、素朴な中にも気品あるその華やかさは、年を追う毎に人々をまた癒していくのだろう。
 駐車場へ戻りがてら、城郭でひときわ大きな桜が根を下ろす土塁へと登ってみる。遠目から一本の巨大樹に見えた枝ぶりは、近づけば3本の花群で、ひとつの世界を形作っていた。一説では“サクラ”の名は、春に里に下りてくる山神(サの神)の依代、“御座(みくら)”に由来するという。薄紅色の天蓋から時折、夢のように降り注ぐ花吹雪は、まさに女神の降臨を祝す美しい舞台のよう。目を馳せれば、ここからは西軍が砲陣を置いた小田山も間近に見える。「明日は、あの山に行ってみましょうよ」と連れ。まつり会場の喧騒から離れ、コヒガンザクラの前でのんびりと花見を楽しむ老夫婦のふたつ背中が、ポカポカと春の陽射しに寄り添っていた。

い瀧の湯ロビー桜s.jpgと瀧の湯朝霞桜s.jpgお瀧の湯客室桜s.jpg
ね瀧の湯幻の湯桜s.jpgか瀧の湯夕食s.jpgき瀧の湯夕食s.jpgち瀧の湯語り部s.jpg
つ瀧の湯朝霞桜s.jpgほ瀧の湯十六夜の湯桜s.jpgぬ瀧の湯朝食s.jpg

桜と湯と水の風雅。
花見露天の湯ぜいたく。

 宿のラウンジから望む能舞台も、この季節は竹林と花の麗しい競演。涼やかな緑に際立つ桜は豪奢な城の姿とまた異なり、しとやかな風情がある。窓を開け放ち、うっすらと湿気を帯びた春の山気を部屋一杯に取り込んでみる。無粋な網戸のない生活が楽しめるのも、この季節ならではの風流だろう。
 夕食前には、目の前の湯川に手が届きそうな野趣満点の貸切風呂「幻の湯」で、さらなる至福を二人占め(笑)。桜の霊力か、いつもなら連れに戒められる旅先の酒量も、花見の季節はこころなしか寛容だ(笑)。
 興が乗り、久しぶりに足を運んだ民話会(詳しくはこちらのブログを参照)は、語り部の会津弁と夜桜を楽しむ人々で賑わっていた。時折、笑いも交えたほのぼのとした語り口に、長閑な春の夜が更けてゆく。
 夜半の雨か、朝露だろうか。潤いを帯びた空気の中、翌朝は愉快な釜風呂の貸切風呂「十六夜の湯」で、庄助さんよろしく朝湯を満喫。つきたての“ちから餅”と、評判のおふくろ料理をほおばりながら、これから向かう小田山歩きの歴史談話に話が弾む。山は宿からも程近い場所にある。今年の花見風呂の見納めにと、出発前にもうひと風呂浴びていくことにした。

30小田山入口桜s.jpg31小田山葦名家寿山廟跡下s.jpg34小田山西軍砲陣跡s.jpg
36小田山西軍砲陣跡より鶴ヶ城s.jpg40小田山丹波能教墓s.jpg
39小田山西軍砲陣跡から上るs.jpg44小田山物見台s.jpg47小田山物見台界隈より磐梯山s.jpg

今なお残る西軍砲陣地跡。
歴史舞台の小田山歩き。

 目的地までは宿から車で約10分。登山道入口は花見ヶ丘の小田山霊園へ向かう途中、“小田山公園”と書かれた看板の細い道を入った先にある。5台程のスペースの駐車場のそばには、畑に寄り添うように見事な桜の古木並木もある。
 案内板によれば、ここから山頂の物見台までは1,330m。「歩くとどれくらいかなぁ?」と、思案していると、運良く下山してきた方の助け舟(!)。伺えば、幸いにも30分程度とのこと。
 小田山は鎌倉から安土桃山にかけて約400年、会津の地を治めた葦名氏が本拠地の山城を置いた場所だ。戦国時代の大名は政治および生活の場である“居館”とは別に、有事の砦として山城を築くのが一般的だった。葦名氏は居館である「黒川城」(現在の鶴ヶ城)の東、約1.5km離れたこの地に小田山城を築いたという。登山道は歩きやすく整備され、沿道には桜も植樹されている。四季折々の自然と気軽に触れあえる小田山歩きは、歴史ファンならずとも楽しい気軽なハイキングコースだ。
 登り始めてすぐ「葦名家廟所」、「観音堂跡」と書かれた標柱が現れた。かつて葦名家の墓所があった場所らしい。さらに歩くと木が切り払われ、市街地の桜を一望できる見通しのよい場所に出る。西軍砲陣地跡だ。ここまでゆっくり歩いて約15分。戊辰戦争時、会津に攻め寄せてきた西軍は、この地にアームストロング砲を据え付け、天守めがけ、雨あられと砲弾を打ち込んだのだ。見れば、ここから鶴ヶ城の天守は丸見えだ。その近さにあらためて驚く。周囲に高い建物がない当時、平城であった城は格好の標的だったことだろう。史書によれば小田山はまさに“鶴ヶ城のアキレス腱”とも言える要所で、この山を奪還するために多くの会津志士が落命している。
 山頂付近にある平場には、藩校日新館を創設し会津藩の基礎を築いた名家老、田中玄宰(たなか はるなか)の墓や、北海道で北方警備に就いた丹羽能教(にわ よしのり)の墓もあった。この城跡界隈までは約30分と、まさに丁度いい運動量。標高372mの山頂となる“物見台”は、そこから尾根沿いに約150m登った先にある。「いい眺めねぇ」と、景色に見惚れる連れの言葉通り、ここからは会津市街や東山、磐梯山の素晴らしい眺望が広がっていた。
 ふと見下ろすと、北側に桜並木のある芝公園が見える。どうやら、案内板にあった「子供の森」らしい。連れと相談し、一旦、山を降りて後から足を伸ばしてみることにした。

49小田山恵倫寺s.jpg52小田山恵倫寺W桜s.jpg55小田山建福寺本堂前垂桜s.jpg
DSC04028建福寺★s.jpg58小田山善龍寺より建福寺垂桜見るs.jpg59小田山善龍寺山門垂桜s.jpg60小田山善龍寺山門からs.jpg

悲劇を悼む花の優姿。
知られざる婦女子哀話。

 小田山山麓は葦名一族の廟所をはじめ、藩士の墓所や日清戦争等の戦没者を悼む忠霊塔など、以前訪れた会津藩主松平家墓所(詳しくはこちらのブログを参照)同様、戦に殉じた人々の聖域となっている。歴史の宝庫としても知られ、蒲生氏や保科氏ゆかりの寺院も多く、そのひとつ「恵倫寺(えりんじ)」へは、登山道の途中から道が分岐している。
 1590(天正18)年、蒲生氏郷が父の菩提を弔うため創建したこの寺は、天寧寺(詳しくはこちらのブログを参照)や善龍寺とともに会津領の僧録寺をつとめた古刹だ。境内には明治時代、陸軍大将として活躍した柴五郎と、その兄で政治小説家の柴四朗兄弟の墓もある。この寺の仁王門脇にある見事なシダレザクラとソメイヨシノの2色咲き(詳細はこちらのブログを参照)は、小田山の春の風物詩のひとつだ。
 近接する「建福寺」は、1643(寛永20)年、保科正之公の移封に従い移った、いわゆる“お供寺”。ここにある天然記念物のシダレザクラと、少し離れた墓所内に聳える樹齢100年程のシダレザクラも、運良く満開状態だった。
 さらに、そこから南に約5分歩いた高台にも、同じ“お供寺”の「善龍寺」がある。戊辰戦争で唯一、消失を免れた希少な山門は、目を引く漆喰の竜宮造り。参道を彩る鮮やかなシダレザクラが、午後の陽射しに眩しい紅白のコントラストを描いていた。
 寺は戊辰戦争の悲劇として今なお語り継がれる「二十一人の墓」や、「なよたけの碑」でも有名だ。会津藩家老、西郷頼母の家族9名を含む一族21名(いずれも婦女子)は、戦での足手まといを憂い屋敷内で自刃した。頼母の妻、千重子は自らの信念を“なよたけ(細竹)”になぞらえ辞世の歌を遺している。

 〜西郷千重子辞世の句〜

 なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ

 意味/弱いなよ竹のように吹く風に連れてゆれ動くばかりの弱い女の身だが、
    そのなよ竹にはどんな強風にも曲がらない節があると聞く。
    私も節義に殉じて一死を選ぶ。

DSC04064善龍寺★s.jpg63小田山善龍寺なよ竹の碑s.jpg64小田山善龍寺西郷頼母と保科正長の墓s.jpg65小田山善龍寺自刃二十一人墓s.jpg
61小田山善龍寺山門から鶴ヶ城s.jpg66小田山子供の森s.jpg68小田山子供の森s.jpg

 墓と句碑は本堂裏手の墓域内にあった。墓碑の傍らには一族を憐れんだ人々の計らいか、明治時代を74歳まで生き、会津の汚名を晴らした頼母が後世に弔われた夫妻の墓も寄り添っている。荒ぶる時代に翻弄された人々の御霊に、静かに手を合わせる。
 そのまま歩いて駐車場に戻り「子どもの森」へ。市街地を望む谷間にファミリースキー場やキャンプ場、湿地や池など、子どもたちの自然学習の場として整備された施設は、広大な敷地に松や桜が植樹された開放感あふれる佇まい。広場を縦横無尽に走り回る、愛玩犬の姿を眺めながら、連れも「きれいな場所ねぇ」と、連発している(笑)。小田山周辺の歴史散策も含め、ゆっくりと会津の春を楽しめる「子どもの森」は、知る人ぞ知る花見の穴場スポットだ。
 人混みで賑わう花の城と、歴史を刻む春の山を訪ね歩いた今回。古く神や精霊が宿るとされた桜は、神前や仏前へ捧げる供物として「たむけ花」とも呼ばれたという。あふれんばかりに城を埋め尽くす姿といい、モノクロームの寺に楚々と彩りを挿す姿といい、桜はまさに喜びと憂い、追憶と希望、相反する想いを一身に背負う花だ。それは、私たちが日本人としての誇りを捨てない限り、これからも続くだろう。
 花吹雪が春のフィナーレを告げれば、今年もまた会津に新しい夏がやってくる。まだ見ぬ歴史を旅するように、次は喜多方あたりへも足を伸ばしてみようか。帰りの車中、尽きないそんな会話にもまたひとつ、花が咲き零れてゆく。






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2016年03月22日

4月 春の桜詣で、会津花へんろ


花すがたに偲ぶ故国愛。
会津を染める桜色の春へ。

2016年3月

 限られた春の一時を、見事な華やかさと潔さで咲く桜は、まさに会津人の気概を思わせる花だ。標高がやや高く内陸部に位置する会津は、福島の他の地域よりも開花が遅く、見頃となるのは例年4月中旬から5月上旬にかけて。「日本の桜の名所100選」のひとつでもある鶴ヶ城をはじめ、市内の随所には戊辰戦争で荒廃したふるさとを憂い、明治以降、次々と植樹された桜の名所が多々ある。
 季節は待ち焦がれた春。かつてこの地に流れた歴史に想いを馳せながら歩く、会津の花へんろを会津若松市街地を中心に幾つかご紹介したい。


東山会津桜マップ.jpg

DSC03825鶴ヶ城★s.jpgDSC03798鶴ヶ城★s.jpgDSC03786鶴ヶ城★s.jpg
DSC03837鶴ヶ城★s.jpgDSC03835鶴ヶ城★s.jpgDSC03756天寧寺町口郭門★s.jpg
DSC03736天寧寺町口郭門★s.jpgDSC03764興徳寺★s.jpgDSC03781興徳寺★s.jpg

◎鶴ヶ城・天寧寺周辺

<鶴ヶ城>
会津随一の花見スポットである鶴ヶ城(詳細はこちらのブログを参照)の公園内には、約1000本のソメイヨシノを中心に、エドヒガン、シダレザクラ、ヤエザクラなど、数多くの品種が時期をずらしながら咲き誇る。天守閣から見下ろす桜の景色は絢爛豪華。
恒例の「鶴ヶ城さくらまつり」では、東日本最大級と称される規模で史跡全体がライトアップされる。三の丸口の県立博物館駐車場の石垣に約100mに渡り続くタカトウコヒガンは、隣接する陸上競技場の白いソメイヨシノを背景に一段と華やか。
天守閣前広場には、かつて会津藩上屋敷のあった京都府庁旧本館中庭で、大島桜と山桜の特徴を持つ新種として発見され、「容保桜」の命名で寄贈された苗木の他、大河ドラマにちなんだ新種の桜「はるか」も植樹されている。

【鶴ヶ城さくらまつり】 ※平成28年予定
平成28年4月8日(金)〜5月8日(日)
TEL/0242-23-4141(会津まつり協会)

<天寧寺町土塁の桜>
鶴ヶ城から約1.0Km。花春町バス停前にある土塁は、1592(文禄元)年、蒲生氏郷が鶴ヶ城の改築において城の外郭と内郭を区画するために築造した遺構。現存する貴重な遺跡で国指定史跡。土塁上には大木のソメイヨシノがあり、バス停前の桜並木とともに春には道行く人々の目を楽しませてくれる。

<興徳寺>
創建は1287(弘安10)年。その由緒と格式から城下町が整備され寺院が郭外に移された後も、郭内に唯一留まることを許された寺で、会津の基礎を築いた名将で初代城主の蒲生氏郷公の墓(五輪塔)があることで有名。葵御紋の入った門の奥に広がるこじんまりとした広さの境内には、氏郷公の顕彰碑と辞世の句碑をはじめ、公が城下町建設に着手してちょうど300年目にあたる1891(明治24)年、「若松開市三百年祭」に寄せた松平容保の祝歌碑もある。公の遺髪を納めた五輪塔は万物の構成要素である空・風・火・水・地を表現。桜の季節には、墓所が桜で彩られ街の喧噪を忘れさせてくれる。すぐそばには、鎌倉時代から信仰される「おさすり地蔵」もある。

 〜蒲生氏郷辞世の句〜

 限りあれば 吹かねど花は散るものを 
 心みじかき 春の山風

 意味/風など吹かなくても花の一生には限りがあり、
    そのうちいつかは散ってしまうものなのに、
    それをどうして春の山風は何故こんなに急いで
    短気に花を散らしてしまうのでしょうか。

 〜松平容保の祝歌〜

 百年(ももとせ)を 三たび かさねし若松乃
 さとはいくちよ 栄え行らん

DSC03501向瀧★s.jpgDSC03507向瀧★s.jpgDSC03515向瀧★s.jpgDSC03518向瀧★s.jpgDSC03538瀧乃湯★s.jpgDSC03552大龍寺★s.jpg
DSC03554大龍寺★s.jpgDSC03558大龍寺★s.jpgDSC03570大龍寺★s.jpgDSC3570N大龍寺★s.jpg

◎慶山・東山温泉周辺

<東山温泉>
市街中心部から車でわずか10分。開湯1,300年の歴史を誇り、竹久夢二や与謝野晶子、土方歳三などにもこよなく愛された古き良き湯街は、桜が咲き誇る春のそぞろ歩きも情緒豊か。清冽な雪解け水の渓谷美と清々しい湯の温もりが堪能できる。

<正法寺>
上杉景勝公が会津拝領となり、伴って移ったお供寺のひとつ。慶長3(1598)年、越後の天倫寺の僧が開山。桜がほころぶ境内には、この寺に改葬を願った女の幽霊のために建立したと伝わる「幽霊の墓」や、漢詩「白虎隊」の作詩者、佐原盛純の墓がある。

<大龍寺>
1643(寛永20)年、会津移封となった保科正之とともに会津に移った機外禅師が開山した大龍寺(詳細はこちらのブログを参照)。境内には小笠原流の祖、小笠原長時の他、山本八重の実家である山本家や算学者の安藤有益など、多くの会津藩士族の墓所が並び、戊辰戦争殉難殉節供養碑もある。真赤に色づく秋の楓紅葉でも知られる寺は、春は参道が桜で埋め尽くされ、孔雀がいななく境内には三春の滝桜の子孫である見事なシダレザクラが楽しめる。

DSC03950小田山忠霊堂★s.jpgDSC03946小田山忠霊堂★s.jpgDSC04042善龍寺★s.jpg
DSC04086善龍寺より★s.jpgDSC04068善龍寺★s.jpgDSC04081善龍寺★s.jpg
DSC04107青木界隈★s.jpgDSC04133浄光寺★s.jpgDSC03965恵倫寺★s.jpgDSC03971恵倫寺★s.jpg
DSC03981恵倫寺★s.jpgDSC03891湯川沿い★s.jpgDSC03871湯川沿い★s.jpg

◎小田山・花見ヶ丘・北青木周辺

[小田山(小田山公園)]
古く葦名氏の本拠地、小田山城が築かれたことで知られる標高372mの小山。麓にはその葦名家ゆかりの名刹古跡が鎮座。山頂には会津藩家老、田中玄宰(たなか はるなか)の墓、北方警備の軍事奉行として樺太にも赴いた丹羽能教(にわ よしのり)をはじめとする丹羽家の墓もある。鶴ヶ城を見下ろすこの地は戊辰争の折、新政府軍の砲撃陣が置かれ山腹には当時を物語る「西軍砲陣跡」も残されている。

[花見ヶ丘・建福寺前・北青木地区]
善龍寺や建福寺がある北青木周辺は、昔ながらの入り組んだ細い路地に由緒ある寺社が点在する閑静なエリア。小田山の麓に位置するこれらの地区からは約2Km先の鶴ヶ城も間近に見え、桜の名木を鑑賞がてらの散策もおすすめ。

<小田山忠霊堂の桜>
小田山の麓にある慰霊塔。日清戦争および大東亜戦争をはじめとする戦没者の遺骨や遺品を安置。住宅地に囲まれた環境は静かで、満開時には桜のトンネルと化す並木道など、知る人ぞ知る花見の穴場スポット。

<善龍寺参道のしだれ桜>
寺は1643(寛永20)年、泉海が開山。会津拝領となった保科正之公の移封に伴い移ったお供寺のひとつ。戊辰の役で本堂をはじめとするすべての堂宇が焼失したものの、1797(寛政9)年に建造された竜宮造りの山門はそのままに残る。りんご畑が広がる長閑な参道にはしだれ桜が植樹され、山門との絵になる景色が楽しめる。境内には戊辰戦争の悲劇として語り伝えられる会津藩家老、西郷頼母一家の墓の他、自刃した西郷千重子の辞世の句を記した“なよ竹の碑”もある。

 【なよたけの碑】
戊辰戦争で殉じた名前の解る233名の婦女子の偉業を留めた慰霊碑。刻まれた歌は会津藩家老、西郷頼母の妻、千重子がたまわぬ竹の節になぞらえながら、会津婦女子の精神の強さをうたいあげたものとして有名。

 〜西郷千重子辞世の句碑〜

 なよ竹の 風にまかする 身ながらも
 たわまぬ節は ありとこそきけ

 意味/弱いなよ竹のように吹く風に連れてゆれ動くばかりの弱い女の身だが、
    そのなよ竹にはどんな強風にも曲がらない節があると聞く。
    私も節義に殉じて一死を選ぶ。

<恵倫寺(えりんじ)の桜>
1590(天正18)年、蒲生氏郷が父である賢秀の菩提を弔うため創建。本尊の聖観世音菩薩立像は、全国でも珍しい前方に両手を差し伸べ人々を救済する前傾姿勢。当時、郭内にあった寺は1612(慶長17)年、現在の小田山麓に移転。会津領の僧録寺として天寧寺、善龍寺とともに各寺院を管轄した。仁王像のある随身門を入った場所には流れ落ちるように見事に咲くシダレザクラがある。境内には柴四朗、柴五郎兄弟の墓もある。

<建福寺のしだれ桜> 
寺は1643(寛永20)年、保科正之公の移封に従って移ったお供寺。 正之公の養祖父、保科正直の法号から“建福”の号がとられた。現在の堂宇は1870(明治3)年、当時の鶴ヶ城御殿の古材を利用し、再建されたものといわれる。境内にある天然記念物のシダレザクラは樹高13m、幹周2.5m。根元付近で双幹となり、枝は三方向へ広がり花の咲いた姿の美しさは格別。歩いて5分程の場所には長岡藩家老、河井継之助の埋骨地があり、歴代住職の墓地内にも樹齢100年程ののシダレザクラがある。

<湯川沿いの桜> 
小田山から市街中心部へと向かう小田橋から天神橋までの鶴ヶ城側土手は「湯川いこいの河端公園」として、散歩にも最適なソメイヨシノの桜並木が続く。

DSC03571飯盛山★s.jpgDSC03584飯盛山太夫桜★s.jpgDSC03593飯盛山★s.jpg
DSC03663東部公園★s.jpgDSC03687東部公園★s.jpgDSC03709蚕養神社★s.jpgDSC03714蚕養神社★s.jpg
DSC03644会津短期大★s.jpgDSC03636八幡神社★s.jpgDSC03637八幡神社★s.jpg

◎飯森山周辺

<飯盛山>
白虎隊の自刃の地である飯盛山(詳細はこちらのブログを参照)には、厳島神社やさざえ堂など、墓所へと続く参道沿いに志士たちの御霊を慰めるように多くの桜が咲き誇る。

<飯盛山の太夫桜>
飯盛山にある白虎隊記念館の傍らに咲く太夫桜は、石部桜と並ぶ会津の二大老樹のひとつ。高さ約13m、周囲約5.5m。樹齢約300年のこのエドヒガンザクラは、1626(寛永3)年、会津城下の掘江町にいた“いつき太夫”という名の名妓が花見の折、暴徒に殺められ、これを悼んだ太夫の弟で法師の南秀が墓畔に植えたことに由来するとされる。現在、その樹はすでに枯れ、2代目と伝えられる。

<東部公園>
閑静な住宅地の中に佇む市民公園。芝生グラウンドや遊具広場のある園内は近隣住民による憩いの花見スポットとして愛され、春には弁当持参で花見に訪れるちいさな子供連れの家族も多い。黄色い水仙とソメイヨシノ、シダレザクラのカラフルな競演も心和む景色。

<蚕養国神社の峰張桜>
会津若松市内の古三社のひとつ、蚕養国(こがいくに)神社(詳細はこちらのブログを参照)の境内にある御神木で、幹周約8mを誇る推定樹齢1.000年以上のエドヒガンザクラ。樹勢の衰えが目立ち始め、近年、接ぎ木の育成にも力が入れられている。ソメイヨシノと比較し花の量も少ないが清楚に白く咲く花は風格が漂う。市指定天然記念物。

<会津短期大学の桜並木>
会津大学に付設されている県立の短期大学部で、福祉系の学科をもつ全国の公立短期大学では最古と言われる。略称は会津大短大部。敷地内には桜並木が続き、付近の会津学鳳高校の桜とともに花見スポットとなっている。

<一箕山(いっきやま)八幡神社>
会津短期大学と会津学鳳高校の間に鎮座する古社で、用明天皇の御代(585〜587)、京都の石清水八幡宮の分霊を勧請し、前方後円墳の頂に創建されたと伝わる。寛治年間(1087〜1094)、源義家が社殿を建立した際、動員した農民1万人に一箕ずつ土を運ばせて築いたことからこの名がついたとされる。
小高い丘にケヤキ、エノキ、ナラ等が立ち並ぶ社業林は、周辺の開発が進むなかに残る貴重な樹林。樹高約40mのスギは天狗杉と呼ばれ、地域のランドマークとして親しまれている。大わらじが奉納された神門前には桜の古木が佇み、由緒ある社の歴史を物語る。

DSC03468石部桜★s.jpgDSC03483石部桜★s.jpgDSC03485石部桜★s.jpg
DSC03496石部桜周辺★s.jpgDSC03457大塚山古墳★s.jpgDSC03440大塚山古墳★s.jpg

◎飯森山以北

<石部桜>
樹齢600年。飯盛山の北側に広がる田園地帯でひときわ目を引くエドヒガンの一本桜。1611(慶長6)年から編纂された「会津風土記」や、その後の「新編会津風土記」の中にも、会津五桜のひとつとして記載がある。中世会津の藩主、葦名氏の重臣、石部冶部大輔の庭にあった遺愛の桜と伝えられ、大河ドラマのオープニングにも登場。地面から隆起した8本の幹全体の枝張は約20m。迫力ある逞しさと淡い花姿のやさしさを あわせもつその姿は市天然記念物に指定。昼間の喧騒を離れた静かな雨の夜の石部桜の姿は“石部夜雨”として「会津八景」のひとつに選ばれている。根本には、この桜に寄せた江戸時代の歌人たちの歌碑もある。

 〜千種 有功(ちぐさありこと)〜
 1797(寛政9)〜1854(寛永7)。江戸時代の公卿、歌人。

 うゑおしき
 人のこころの花ざくら
 にほひちとせも
 苔むさずして

 〜村田 春海(むらたはるみ)〜
 1746(延享3)〜1811(文化8)。江戸時代中期から後期にかけての国学者、歌人。

 野となりし
 のちのかたみと春ごとに
 さくやむかしの
 庭ざくらかな

 〜星 暁邨(ほしぎょうそん)〜
 1815(文化12)〜1900(明治33)。江戸末期から明治期までの会津を代表する画家・歌人。

 花みつつかすみ
 酌むまのひと時は
 うき世の外の
 我世なりけり

<会津大塚山古墳の桜>
四世紀末に築造されたと推定される全長約114mの前方後円墳は国の史跡に指定。その規模は県内では亀ヶ森古墳に次いで第2位、東北地方でも第4位を誇る。現在、周辺は墓地として整備されており、春には周辺を取り囲むように桜が咲き誇る。360度の視界が広がる山頂からは雄大な磐梯山の絶景も一望できる。

DSC03400神指城跡★s.jpgDSC03389神指城跡★s.jpgDSC03382神指城跡★s.jpg

◎その他

<神指(こうざし)城跡の桜>
市街地から車で約15分。田園が広がる郊外にある神指城は、上杉景勝が徳川家康の会津征伐に備えて計画した未完の城。完成すれば面積は鶴ヶ城の約2倍。奥州を代表する巨大城郭だったと言われる。現在は二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみ。東北隅の土塁上には築城前からあった「高瀬の大木」と呼ばれる根周り約13m、樹高約25m、推定樹齢500年もの国指定天然記念物ケヤキの巨木に寄り添うように、見事なソメイヨシノの大木が春を彩る。


田季野全景縦s.jpg田季野01s.jpg田季野五種輪箱飯s.jpg田季野けっとばし輪箱飯s.jpg
ゆっくらシングルs.jpgゆっくらツインs.jpgゆっくらラウンジ縦s.jpgゆっくら玄関s.jpg瀧の湯夕食s.jpg

目に舌に愉しい春の味遊び。
会津名物、元祖輪箱飯。

 桜巡りがてら立ち寄りたい味処「田季野」は、奥会津の檜枝岐で600年もの歴史を誇る伝統工芸“曲げわっぱ”を使った輪曲飯(わっぱめし)”が味わえる名店。フタを開けた瞬間、箸を急かせる香りをまとった湯気とともに、鮮やかな彩りが目を楽しませる輪曲飯は、五感が悦ぶ御馳走。メニューには、ぜんまい、茸、蟹、鮭、卵の具材がのった人気の「五種輪箱飯」(1,900円)の他、特産の馬肉を甘辛く煮た「けっとばし」(1,030円)など数種類あり、いずれも前菜2品と味噌汁、漬物が付く。
 かつて会津西街道にあったという築250年の陣屋を移築・復元した建物は風格をたたえ、戦の傷跡を残す大黒柱と太い梁、陣屋らしい立派な囲炉裏など、骨太で美しい佇まいが目を引く。店では他にも単品で楽しめる郷土料理も揃う。じんわりと体に染み入る春の味遊びにぜひ、いかがだろう。
 ちなみに瀧の湯の本館から歩いて2分程の場所には、気軽なアネックス館「ゆっくらイン」もある。部屋はシングルとツインの2タイプ。風呂は本館の大浴場が利用でき、夕朝食も移動して瀧の湯の館内でゆっくりと堪能できる。季節が良くなるこれからのシーズン、気軽なひとり旅や長期滞在にも最適だ。

 現在、国内に咲く桜のほとんどはソメイヨシノだという。寿命が約80年と言われるソメイヨシノは成長が早く、花の盛りが樹齢15〜50年であることから、人の一生にも例えられる。私たちがこの花に人生の時間軸を重ね、命の尊厳を見出すのはそのせいだろうか。桜の花言葉は「精神美」。それを知ればことさらに会津の花巡りもひとしおだ。季節との約束を決して忘れない、桜の清らかな美しさに、この春、ぜひ出会って欲しい。




posted by aizuaruku at 16:08 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月17日

1月 雪の鶴ヶ城と麟閣に心惹かれて


雪上に聳える赤瓦の大天守、
不屈の名城、鶴ヶ城。

2016年1月某日

0101鶴ヶ城西出丸梅坂s.jpg8169鶴ヶ城全景晴れs.jpg0309鶴ヶ城ガイドs.jpg0413鶴ヶ城ガイドスタートs.jpg0605鶴ヶ城鐘撞堂s.jpg0807鶴ヶ城鐘撞堂s.jpg

 東北屈指の豪雪地帯として知られる会津。会津の美しさの一端は、雪景色にあると言ってもいいだろう。凍てつく冬の寒さに凛と佇む城の姿に惹かれ、年明けも落ち着いた1月下旬、再び会津へ。例年、この季節なら30cmはあるという雪が今年は驚くほど少ない。
 別名「若松城」とも呼ばれ、会津のシンボルとして君臨する「鶴ヶ城」は、市街地の中心部にある。2011年、幕末期と同じ赤瓦に吹き替えられた天下の名城は、清澄な雪上に白亜の雄姿で映えていた。
 「よろしければご案内しますか?」大天守を仰ぐ私たちの姿を見たガイドの杉浦さんに、声を掛けられる。城内にはボランティアガイドが常駐し、客の要望に応じて30分程度、無料で案内してくれるという。伺えばちょうど鐘撞き体験ができる時刻らしい(!)。誘われるまま、まずは西出丸にある鐘撞堂へ。
 今から約150年前に起きた戊辰戦争の籠城戦でも、ひるむことなく正確な時を告げ続けた鐘の音は、城外で戦う味方兵の士気を大いに鼓舞した。これを煩わしく思った新政府軍がここに集中砲火し、時を報らせる時守(ときもり)が次々と倒れても、別の者がこれに続き、最期の開城まで鐘の音が止むことはなかったという。まさに、会津人の意地と誇りを感じる逸話のひとつだ。現在は、ボランティアガイドの手によって正午と午後3時に鐘が打ち鳴らされ、観光客も体験できる。
 鐘の撞き方は、正午を“午の刻九つ”と呼んだ江戸流。捨て鐘と呼ばれる3回の合図のあと、本打の9回を撞く。吊鐘は延亨4(1747)年、4代容貞公の時に鋳造されたものだ。辺りの空気を震わせてゴォンと鳴り響く150年前と同じ音色の、深く長いその余韻に手を合わせる。

1014鶴ヶ城大手門大石s.jpg1115鶴ヶ城修学旅行s.jpg1216鶴ヶ城武者走りハート石s.jpg
1317鶴ヶ城笠間稲荷s.jpg1418鶴ヶ城笠間稲荷前の早梅s.jpg1519鶴ヶ城鉄門s.jpg
1923鶴ヶ城鉄門横ハート石2s.jpg2125鶴ヶ城土井晩翠碑s.jpg2226鶴ヶ城月見櫓よりs.jpg2328鶴ヶ城廊下橋s.jpg

出会いと学びの大人の冬旅。
城址巡りの知的愉しみ。

 北出丸から本丸へと通じる椿坂付近の石垣には、城内で最大の高さ2.6m、幅2.8m、推定7.5tの「鏡石」がある。別名“遊女石”と呼ばれるこの巨石は、そのあまりの重さに遊女を乗せ、歌や踊りに励まされながら運んだものだという。
 「最近、ああいう若い方に人気の“ハート石”もあるんですよ」城の見学に来ていた学生達を眺めながら、杉浦さんが教えてくれる。なるほど、武者走りのある石垣には確かにハート型の石の姿が見える(笑)。伺えば、城内にはもうひとつこんな形の石があるらしく、2つ見つければ良縁が叶うパワースポットとして、いま話題らしい(笑)。
 樹齢100年を超えるソメイヨシノの古木が見事な城内は、市内随一の花見スポットしても知られ、春には桜越しに美しい城の姿が仰げる。笠間稲荷神社が鎮座する本丸の南広場には、早々と春へ想いを寄せる白梅が雪に埋もれてひっそりと咲いていた。
 せっかくだから、という連れの希望で杉浦さんに案内され、足首まで埋まる雪を踏みしめ2つ目の“ハート石”を探索。“鉄門 (くろがねもん)”と呼ばれる表門近くで見つけた石は、何とも小ぶりでまさに夫婦石のようだった(笑)。
 本丸東南には、土井晩翠が鶴ヶ城址を詩材に作詞した直筆の「荒城の月碑」もある。近くの「月見櫓」から望む眺めは杉浦さん曰く、城が最も立派に見える穴場ポイントとのこと。桜の季節には、茶室「麟閣」を手前に天守がちょうど花に包まれた姿になる。城の見学にはぜひ、知識豊富なガイドさんの同行をおすすめしたい。案内された石垣沿いからは遠くに磐梯山、眼下に二の丸に通じる朱塗りの「廊下橋」や、高さ20mの見事な「高石垣」も一望。底冷えする寒さの中、長時間快くお付き合いくださった杉浦さんに感謝を申し上げ、ここからは分かれて天守内部の見学へと向かう。

4850鶴ヶ城売店s.jpg2530鶴ヶ城館内s.jpg2631鶴ヶ城館内白虎隊士の姿絵s.jpg2833鶴ヶ城白虎隊官軍攻の図s.jpg3034鶴ヶ城戦火の写真s.jpg
3136鶴ヶ城館内s.jpg3338鶴ヶ城天守閣より東山s.jpg3439鶴ヶ城天守閣より飯盛山s.jpg

栄華と波乱の歴史に触れる、
天守閣博物館。

 「鶴ヶ城」は今から約630年程前、葦名直盛がこの地に築いた“東黒川館”を前身とする東北の名城だ。戊辰戦争後、城は明治7(1874)年に取り壊されたものの、昭和40(1965)年に再建され、現在、内部は郷土博物館となっている。
 まずは入場料(大人510円/鶴ヶ城・茶室麟閣共通券)を購入。展示は「走長屋(はしりながや)」と呼ばれる建物内のギャラリーショップを中心に、北側の大天守ゾーンと南側の「南走長屋(みなみはしりながや)」ゾーンの2つに分かれている。5層となった天守閣内は、フロア毎に設けられたテーマに沿い、武具や甲冑、会津の伝統工芸品や戊辰戦争にまつわるさまざまな資料を展示。東北の要衝として、城主が何度も変わった鶴ヶ城はゆかりの武将も多く、歴史ファン垂涎の文化財も豊富だ。天守台内部には塩蔵も再現され、“野面積み(のづらづみ)”と呼ばれる約400年前の石垣が、天守閣唯一の遺構として当時の姿を留めていた。
 最上階の展望台からは会津磐梯山をはじめ、白虎隊が自刃した飯盛山(詳細はこちらのブログを参照)、近藤勇の墓がある天寧寺(詳細はこちらのブログを参照)など、激動の歴史舞台となった会津市街が360度見渡せる。新政府軍が砲撃の陣を置いた小田山までは、ここから直線距離にしてわずか2km。激戦時にはあの山腹から一日5,000発もの砲弾がこの天守めがけて降り注いだのだ。つい今しがた目にした、戦火で荒廃した城の写真が脳裏をよぎる。傷つきながら、最期まで崩れることのなかったその姿は、会津人の気高い魂そのものだ。

3540鶴ヶ城八重衣装s.jpg3641鶴ヶ城復元南走長屋入口s.jpg3844鶴ヶ城復元干飯櫓s.jpg
3945鶴ヶ城鉄砲刀イミテs.jpg4046鶴ヶ城鉄砲構えるs.jpg4148鶴ヶ城石落しs.jpg3748鶴ヶ城南走長屋s.jpg
8375会津葵s.jpg8476会津葵s.jpg8880会津葵s.jpg

威風を放つ復元遺構に
哀悼の想いを募らせながら。

 平成13(2001)年に江戸時代と同じ工法で復元された「干飯櫓(ほしいいやぐら)」と「南走長屋」は、建物そのものが見どころのため、内部は当時の使われ方をイメージした簡素な展示となっている。長屋の入口には、先のNHK大河ドラマ“八重の桜”に出演した俳優陣の衣装も飾られ、連れも興味津々(笑)。鶴ヶ城で最大の二重櫓だという「干飯櫓」内には、敵を迎え撃つための“石落し”を再現した等身大の人形や、実際に手にとれる銃や刀のレプリカもある。ズシリと冷たいその感触に、屈辱的な戦いに男も女もなく決死の覚悟で挑んだ会津藩民の、やり場のない胸中が偲ばれる。かの司馬遼太郎も名著『街道をゆく』の中で、「歴史のなかで都市ひとつがこんな目に遭ったのは会津若松しかない」と語るほど、この地には、あまりにも多くの尊い血が流れた。
 気付けば外は夕暮れ。鶴ヶ城見学は、いくら時間があっても足りない。連れと相談のうえ、茶室「麟閣」見学は明日にまわし、今日は宿へ向かうことにした。
 途中、立ち寄った「会津葵」は戦国時代、会津領主を務めたキリシタン大名、蒲生氏郷がもたらした南蛮文化ゆかりの菓子舗だ。東洋と西洋の文化が溶け合った素朴にして上品な創作菓子は、目をひく蔵造りの建物とともに銘菓として愛されている。私達は純和三盆に会津産の白蕎麦粉を使った、亀甲鶴の打ち菓子(980円)を購入。丁寧な仕事を感じる美しい包装も、今に受け継がれた会津の美意識だ。

5000瀧の湯手前滝s.jpg5300瀧の湯客室雪s.jpg5400瀧の湯まぼろしの湯s.jpg5500瀧の湯おはら亭s.jpg5700夕食s.jpg5800夕食ラーメン御飯s.jpg6200伏見の湯庄助桶風呂s.jpg
6300おはら亭廊下s.jpg6400朝食s.jpg6500天寧温泉s.jpg

至福の温もりと眺めが待つ、
雪見露天の冬宿遊び。

 到着した瀧の湯のロビーから見える雪景色も、今年はかなりの薄化粧のようだ。案内された客室でひと息ついたあとは、早速、貸切露天風呂「幻の湯」へ。
 宿にある貸切風呂の中でも最も河原に近い風呂は、せせらぎとマイナスイオンに包まれた爽快な湯心地。「今夜、少し降るといいけど」と、鈍色の空を見上げ一縷の望みを連れと話しつつ、今年初めての雪見露天の贅沢に遊ぶ。
 今夜の食事は畳にテーブルスタイルの和モダンな「おはら亭」。中居さんのすすめで注文した瀧の湯オリジナルの限定酒「庄助古酒」は、老舗の花春酒造が醸した芳醇な含みが食事に合う極上品。白ワインのような黄金色と、純米大吟醸ならではの澄み切ったフルーティな香りは、女性も飲みやすい美酒だ。ひとつひとつ卓上で炊き上げる「会津拉麺釜飯」は、会津産コシヒカリと名物のラーメンを掛け合わせた“会津ブランド認定商品(http://aizubrand.shop-pro.jp/)”のひとつ。醤油のお焦げも香ばしい、どこか懐かしい味わいだった。
 夕食後は、再びゆっくりと「伏見の湯」で温泉三昧。愉快なほど朦々と立ち込める湯気の中、「庄助桶風呂」にとっぷり浸かり、荒城の城の感慨に想いを馳せる。
 翌朝、朝食へ向かう廊下から、さいかちの大木越しに竹林を望めば、幸か不幸か昨夜の雪もさらにきれいに溶けた様子(笑)。気を取り直し、今日もまた瀧の湯名物のつきたて餅料理に力を得て、昨日、杉浦さんから伺った茶室「麟閣」の興味深い話に花を咲かせる。
 チェックアウト前に連れはもうひと風呂、貸切大浴場の「天寧温泉」で雪見を満喫。贅沢な広さを誇る風呂は朝は女性専用で楽しめる。小さな子供の玩具やベビーベッドもある「天寧温泉」は、大人数での貸切や家族連れにも人気の浴場だ。

4951鶴ヶ城麟閣s.jpg7156鶴ヶ城麟閣茶室s.jpg6954鶴ヶ城麟閣左門の字s.jpg
7260鶴ヶ城麟閣茶室s.jpg7562鶴ヶ城麟閣鎖の間s.jpg7459鶴ヶ城麟閣茶室s.jpg8068鶴ヶ城稲荷よりs.jpg
7866鶴ヶ城稲荷s.jpg7765鶴ヶ城稲荷s.jpg7967鶴ヶ城稲荷s.jpg8970南京s.jpg

利を求めず、義に生きる。
会津魂が護った茶道の礎。

 目指す茶室「麟閣(りんかく)」は、雪吊りの佇まいも美しい本丸御殿跡に隣接した場所にある。ここは天正11(1591)年、秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられた千利休の子、小庵が時の会津領主、蒲生氏郷に匿われ、その恩義に報いるために造ったと伝わる。氏郷は“利休七哲(高弟七人)”の筆頭に挙げられる名茶人でもあった。その後、秀吉の赦しを得た小庵は京都で千家を再興し、その一子、宗旦の3人の孫によって表、裏、武者小路のいわゆる“三千家”が興され、現在に至る茶道の基が築かれた。つまり、日本が世界に誇る“茶道”はまさにここから生まれたのだ。初めて知るその事実に、驚きと興奮は隠せない(笑)。
 明治元(1868)年、鶴ヶ城が取り壊される際、戦火に傷んだこの歴史的茶室が失われることを惜しんだ会津の茶人、森川善兵衛の尽力で「麟閣」は善兵衛の自邸に移築・保存され、平成2(1990)年、再び元の場所へと戻された。ちなみに、幕末の会津の明暗を分けた藩是「家訓15カ条」を定めた保科正之も“大名三茶人”に数えられる文化人。“八重の桜”の主人公、山本八重の祖先、山本道珍はこの正之に仕えた藩の茶道頭で、その影響からか、晩年の八重は“宗竹”の名で茶の世界に生きた。江戸時代以前、男性のものであった茶の道は現在8割を女性が占めるが、それはこの八重が女性たちに茶の湯を広めたことが大きいとも言われている。
 創建当時の佇まいを残す茶室は茅葺き屋根の草庵風。雪景色の中、開け放たれた障子から冬の長い光が射し込む台目席の奥には、少庵が自ら削ったと伝わる赤松の床柱も見える。このわずか三畳の慎ましい空間に、会津藩が後世の日本文化に遺した偉大な功績が宿っている。杉浦さんの話によれば「麟閣」内に点在する3つの“扁額(門戸や室内に掲げられた額)”は、表千家、裏千家、武者小路家のそれぞれの家元の自筆で、千小庵を庇護した会津藩へ寄せた感謝の証だという。敷地内には、格式あるそんな茶室の敷居の高さを感じさせない、まさに会津らしいもてなしで、気軽にお点前を楽しめる席も設けられている(別途500円)。
 北出丸へ向かう道すがらの「鶴ヶ城稲荷神社」には、御伽話に出てくるような、雪よけの編み笠やほっかむりを被った愛らしい狛狐の姿も。「麟閣」同様、昔も今も変わらぬ会津の人々の手厚いそのやさしさに心が和む。
 美しい細雪が舞い始めた午後。歩き回って冷えた体を抱え、城の程近く「南京飯店」で少し遅めの昼食タイム。アツアツの「シーフードタンメン」(730円)と「南京めん」(700円)で暖をとる。
 思えば満天下に聞こえる名城、鶴ヶ城の悲劇は、この地に繰り広げられた会津の長く膨大な歴史の、ほんの一端でしかないのかもしれない。会津が後世に遺した本当の資産とは、領主から庶民まであまねく育まれた恩と義の高潔な武士道であり、人々の心に今なお受け継がれる誇りそのものだ。その不屈にして普遍の魂が、今なお私達を会津に惹きつける。この地に端を発する文化は、茶の湯同様、意外に知られていない事実もまだ多い。その糸口でもある「武徳殿」や「日新館」などの話についてはまた、次の機会にでもご紹介したい。







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2015年11月30日

10月 紅葉の御薬園と背あぶり山・お秀茶屋巡り


会津藩の薬学を担った
学びと癒しの庭、御薬園。

2015年10月某日

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41御薬園c重陽閣s.jpg41御薬園d花梨s.jpg41御薬園bプリンセスチチブs.jpg

 日本における薬用植物園の起源は、古く飛鳥時代といわれる。とはいえ規模、分布ともに薬用植物園が最も発達したのは江戸時代。そういえば、徳川家康はかなりの健康オタクで、自ら100種類以上もの生薬を調合していたことでも知られる。
 会津にもこの流れを汲む「御薬園」なる薬用植物園が今も残されている。季節はまさに紅葉シーズン。見事な大名庭園内にあるという薬用植物園は、秋の見所スポットとしても評判だ。
 園に到着したのは、西陽も射し始めた午後。連れの希望で、入口で入園料とお抹茶のセット券(820円)を購入し、はやる気持ちで中へ。(入園料のみは大人320円)
 室町時代、葦名盛久が霊泉が湧き出たこの地に別宅を建てたことに始まる「御薬園」は、四季折々の庭園の景色が、会津の歴代藩主に愛されてきた。気になる紅葉は、青葉の中に目を奪う麗しい赤や黄色が、ところどころで見え隠れしている。どうやらピークの少し手前のようだ。
 薬草を栽培する“標本園”は、9代容保の孫にあたる、秩父宮妃勢津子殿下ゆかりの「重陽閣(ちょうようかく)」(2015.11現在修復中・見学不可)に隣接した場所にある。手入れされた敷地には、二千年の眠りから目覚めた大賀ハスの培養池をはじめ、小ぶりな畝が幾つもつくられ、ドクダミやアザミなどの見慣れた植物に加え、レモンバームやカモミール、フェンネルなどハーブ類の名も見える。冬枯れの季節とはいえ、植物には銘板による効用がそれぞれ記され、眺め歩くだけでも十分に楽しめる。「ホウセンカの効用は魚肉中毒ですって」と、新しい知識に連れも夢中のようだ(笑)。
 藩政時代の薬草栽培地跡をそのまま利用している標本園には現在、会津特産の約200種の生薬を含め、計400種もの薬草が栽培されている。「御薬園」の名は領民を疫病から救うため、2代正経(まさつね)が別荘地だったこの園の一角で薬草を栽培したことに由来する。中でも3代正容(まさかた)が奨励した朝鮮人参の“御種人参(おたねにんじん)”は、日本で初めて清国に輸出されたブランドだったという。
 穏やかな晩秋の光のなか、熟れた花梨の黄色と“プリンセス チチブ”と名付けられた妃殿下ゆかりのバラのピンク色が、鮮やかないのちの息遣いを添えている。会津の薬学の中心であった「御薬園」は今もなお、その瑞々しさを失わない“会津の薬箱”だ。

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06御薬園s.jpg03御薬園s.jpg14御薬園楽寿亭s.jpg
16御薬園楽寿亭s.jpg15御薬園楽寿亭s.jpg17御薬園楽寿亭s.jpg18御薬園s.jpg

波乱の歴史の語り部。
城下町が誇る山水庭の風致。

 “心地の池”を取り囲むように広がる大名庭園は、1696年に3代正容が小堀遠州の流れを汲む園匠、目黒浄定を招き築庭させたものだ。控え目な石組や添景物に、形のよい五葉松や赤松、色づいた楓やモミジ、さらに2つの小滝が配された庭は変化に富み、少し歩くだけで面白いように景色が変わる。中でも洲浜を抱いた“女滝”から、中島の「楽寿亭」越しに望む「御茶屋御殿」の佳景は絵になる。水鏡が映し出す紅葉に加勢する夕暮れの斜光は、まさに千変万化の万華鏡そのものだ。「…きれいだなぁ」一睡の夢のようなその情景に、深い溜息が零れる。
 園路を進んだ先には、かつて村人を疫病から救ったという自然湧水の「鶴ヶ清水」が今も満々と水を湛えていた。ここから道は二手に分かれ、一方は池へ突き出た中島に佇む「楽寿亭」へと続く。かつて藩主の納涼や茶席、さらには密議の場としても使用されたというこの小亭は、左右と対岸の双方に立体的な眺めが楽しめる風流な趣向だ。

19御薬園s.jpg21御薬園カメラマンs.jpg20御薬園s.jpg27御薬園s.jpg
30御薬園御茶屋御殿s.jpg32御薬園御茶屋御殿s.jpg34御薬園御茶屋御殿s.jpg
24御薬園s.jpg37御薬園売店s.jpg40御薬園売店のs.jpg40御薬園売店s.jpg

 赤や黄色、オレンジに緑。光が集う南側の園路は目にも鮮やかな楓たちの独壇場(笑)。推定樹齢500年以上という堂々たる高野槙とモミの巨木は、園の歴史を語る翁と婆の夫婦木を思わせる。京都守護職から戻った9代容保が過ごしたという「御茶屋御殿」は、現在は庭を眺めながらお点前が楽しめるお休み処になっている。池のほとりで鯉に餌をやる親子連れの姿を見ながら、名物の胡麻羊羹と抹茶で、ほっと寛ぐひととき。建物の裏手には、江戸時代の薬にまつわる貴重な資料や、御薬園秘伝の薬草茶を扱う展示室を兼ねた売店もあった。
 戊辰戦争の折、この「御薬園」が戦火を免れたのは、皮肉にも新政府軍に治療所として利用されたことによるという。「楽寿亭」や「御茶屋御殿」には今なお、生々しい刀傷が残されている。目の前に広がる静かで穏やかな景色を眺めていると、この地が癒してきたのは、人々の体だけではないことをあらためて思う。新緑、紅葉、雪景色と、「御薬園」は時期を変えて何度も足を運びたい場所だ。

42瀧の湯 川s.jpg44瀧の湯s.jpg46瀧の湯 客室淡雪s.jpg
47瀧の湯 開花亭s.jpg53瀧の湯 夕食s.jpg56瀧の湯 夕食s.jpg
50瀧の湯 夕食s.jpg57瀧の湯 夜露天s.jpg59瀧の湯 朝食s.jpg

いい湯、いい酒、いい肴。
これぞ秋の美味美湯。

 「御薬園」から瀧の湯までは車で数分。ロビーから望む山々も、秋の薄化粧をし始めていた。川を望む和室でひとまず一服すれば、辺りはあっという間の宵闇。秋の日は短い。
 今夜の夕食は小粋なカウンター席だ。地鶏のつみれを楽しんだ後、“にがり”を加え、さらにおぼろ豆腐が楽しめる「庄助あわゆき鍋」は、野菜と鷄の旨みが溶け出した豆乳の滋味が、体も心も温めてくれる。熱いうちに何杯でもおかわり出来るようにという気遣いから、平たい“手塩皿”で提供される郷土料理の“こづゆ”も、人情味豊かな会津人のもてなしを感じるひと皿だ。
 9代容保が京都守護職時代に伝えたという“棒たら”の炊合せに、今夜は銘酒“飛露喜”の蔵元が醸す、純米吟醸無濾過の生原酒“泉川”を合わせてみる。連れがオーダーした“会津ほまれ ゆず酒”も、造り酒屋ならではの純米酒仕立てのまろやかさ。庄助さんがこよなく愛した、地の酒と地の肴に今夜も平伏(笑)。会津に来たらぜひ、湯の恵みとともに豊富な酒の旨さも堪能いただきたい。
 贅沢三昧の締めくくりは、屋上貸切露天風呂「星空の湯」から望む会津の夜景(笑)。ひんやりと肌を刺す冷たい空気に、まもなくやってくる長く白い会津の冬に想いを馳せる。
 翌朝、名物の餅料理をいただきながら「このあたりの紅葉で、おすすめは何処ですか?」と宿の方に尋ねれば「背あぶり山が見頃ですよ」との笑顔。今日の行先が決定だ(笑)。

61せあぶり山s.jpg64せあぶり山s.jpg65せあぶり山おけいから会津s.jpg
68せあぶり山s.jpg70せあぶり山s.jpg71せあぶり山帰路s.jpg

知る人ぞ知る、
背あぶり山の絶景スポット。

 初夏に一度訪れた背あぶり山(詳細はこちらのブログを参照)の山頂までは、瀧の湯から車で約20分。清々しい山の空気にくっきりと浮かび上がる山嶺は、「御薬園」とはまた異なる、おおらかな自然の美しさを教えてくれる。
 「関白平」から見渡す眺望は、まさに紅葉真っ盛り。発光するように艶やかな南斜面の彩りをしばし楽しんだ後、さらなる絶景を求め、アスレチック広場の脇からキャンプ場へと続く「岩杉遊歩道」へと足を延ばしてみることにした。
 山栗やブナの明るい森が続く坂道は、サクサクと小気味よい音を立てる落ち葉の絨毯。さえずりにふと梢を見上げれば、愛らしい山雀の姿も見える。歩きやすく整備された道は、上下左右、周囲の景色を楽しみながら散策できる快適さだ。
 目指す高台の広場までは約10分。ここから見渡す眺めはさらにダイナミックさを増し、雄大な磐梯山と猪苗代湖が一望できる。色とりどりの紅葉を従え、悠々と蒼い水をたたえる湖の姿に、弁当を持参しなかったことを、二人でいまさら後悔(笑)。人影もまばらな「岩杉遊歩道」は、清澄な山の空気と景色を独り占めにできる秘蔵スポットだ。背あぶり山には、この他にも幾つかの自然散策路がある。体力や時間的余裕に合わせ、身近な東山の自然をぜひ楽しんでみてはいかがだろうか。

72お秀茶屋界隈s.jpg72お秀茶屋s.jpg74お秀茶屋界隈s.jpg77お秀茶屋s.jpg
79お秀茶屋s.jpg80お秀茶屋s.jpg78お秀茶屋 手塚跡s.jpg83お秀茶屋 柿どうぞs.jpg

旅立つひとの心を包んだ
素朴なもてなし田楽。

 山を降りた後は、“田楽”で有名な近くの「お秀茶屋」へ。店は東山温泉にも近い“会津いにしえ夢街道”(詳細はこちらのブログを参照)沿いにある。レトロな筒型ポスト(もちろん現役)が立つ店構えは実に気さくな雰囲気だが、創業はなんと延宝年間(1673〜1681)。こちらはまったく気さくではない(笑)。
 藩政時代、“奴郎ヶ前(やろうがまえ)”と呼ばれたこの辺りは藩の刑場で、刑へと向かう咎人を不びんに思った茶屋の老婆“お秀”が、末期の味にと味噌をつけて焼いた餅を与えたのが「お秀茶屋」の始まりだという。店の脇には歴史を物語る供養塔と「奴郎ヶ前地蔵」が、今もひっそりと祀られている。
 白虎隊の隊士や土方歳三も食べたという名物の田楽のお味は…これが実に美味い!注文を受けてから店の入口にある囲炉裏で一本一本炙られ、甘辛い味噌が焼ける香ばしい匂いをぷんぷん漂わせながら運ばれてくる田楽は、使い込まれた竹串にワイルドに刺さった餅や生揚げ、里芋の姿といい、一目でその“美味ぶり”が分かる(笑)。中でも16代目の店主が毎日つきあげるという自家製餅は、パリッと焼けた皮と、ふわふわの中身がクセになる絶品。これまでの田楽のイメージを覆すインパクトと美味さに、オーダーした「田楽」(800円)と胡桃餅(750円)をあっという間にたいらげてしまった(笑)。店にはこの他、各種蕎麦やところ天などのメニューも揃っている。 
 店内の壁にはこの味に惚れ込んだ山下清や山田洋次など、著名人の写真や色紙が田楽と一緒に煙に燻され、味わいを増している(笑)。中には、会津を愛し逗留した手塚治虫の色紙もある。“ご自由におとり下さい”と書かれた店頭の“ころ柿”サービスも、300年変わらぬ茶屋のもてなしを教えてくれる。
 時間をかけてゆっくりと紅葉どころを巡った今回。目にした資料によれば、戊辰戦争後、新政府軍に没収された「御薬園」は、それを憂いた豪商が会津一円に呼びかけた募金によって買い戻され、容保に献上されたという。まさに、会津人の情の深さを知る美談だ。そういえば、ここには昔から伝わる“会津の三泣き”という言葉もある。一度目は会津人の頑固さに泣き、二度目はそこに宿る人情に泣き、そして三度目は別れの辛さに泣くという。会津に見所は多々あれど、この地を旅する本当の醍醐味とは、人とのふれあいにそんな心の景色を見出すことかもしれない。ぬくもりが胸に沁みる、会津の冬もまもなくだ。







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2015年09月30日

9月 飯盛山に白虎隊の軌跡を訪ねて



水音涼やかな山間の聖域。
神霊が宿る滝沢不動尊。

2015年9月某日

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12滝沢不動尊.jpg13滝沢不動尊.jpg16滝沢不動尊.jpg

 今を遡ること約150年前の1868年9月22日。一ヶ月に渡る籠城戦の末、会津藩は西軍(新政府軍)に降伏し、ここに数多の哀憐を誘った会津戊辰戦争が終結した。今なお語り継がれる悲劇の中でも、特に有名なのが飯盛山で自刃した少年志士「白虎隊」の逸話だろう。彼らの墓前で慰霊祭が行われる9月は、会津を旅する者にとっても特別な月だ。
 夏の微熱と湿気が共存する初秋。未だ恋しい涼を探して向かったのは旧滝沢本陣を通り過ぎ、滝沢峠へ続く林道を車で10分程進んだ先の「滝沢不動尊」。社はモトクロス練習場を少し過ぎ、“南無不動明王”と書かれた赤い幟が立ち並ぶ石段を谷へ向かってしばらく降りて涼やかな川沿いを進んだ先にある。観光客で賑わう飯盛山と程近い場所にありながら、水音と木々のざわめき、鳥の声だけが響く山間は、喧騒と無縁の清澄な静寂。
 やがて杉木立の参道の先に、岩肌を抜いとる絹糸のような姿の滝が現れた。落差は20数m程だろうか。決して迫力のある大きさではないが、ひとつの神秘的な世界を完結する高貴なその清々しさに目を奪われる。滝の手前には「白糸神社」、川を挟んで「滝沢不動尊」、「滝沢観音堂」が合祀されているようだ。付近には滝水を引いた手水舎や歴史を感じる不動明王の石仏も見え、水垢離や滝行をするためだろうか、滝壺へ降りる石段もあった。神霊の存在を感じる厳かな場所で、滝に向かい柏手を打ち頭を垂れる。軽装でも行ける「滝沢不動尊」は、心洗うおすすめの穴場スポットだ。

61旧滝沢本陣.jpg46旧滝沢本陣.jpg47旧滝沢本陣.jpg
52旧滝沢本陣刀疵.jpg54旧滝沢本陣弾疵.jpg51旧滝沢本陣.jpg61旧滝沢本陣02.jpg

穏やかな初秋の陽射しが象る
戦乱の鎮魂歌、旧滝沢本陣。

 不動尊から帰る途中で立ち寄った「旧滝沢本陣」は会津戊辰戦争の折、藩主松平容保の陣屋となった場所だ。白河街道の滝沢口(滝沢峠の登り口)にある建物は、もともとは郷頭の屋敷だったが、参勤交代をする藩主が休憩所にしたことから本陣に指定され、のちに座敷の部分が追加建築されたという。
 敷地内の駐車場に車を停め、隣接する家の管理人に入館料(大人300円)を支払い、早速、主屋を見学。古い農機具や生活用品等を展示する土間の奥には、本陣らしく御入御門や御座の間が当時のままに残され、歴代藩主が愛用した品々が展示されている。館内の音声ガイダンスを聞きながら連れが指差した先には、激戦を物語る刀傷も。気付けば主屋のあちらこちらに生々しい弾痕跡も見える。
 時は1868(慶応4)年8月22日。松平容保は会津城下に進軍してくる西軍を、戦略の要衝であった戸ノ口原で食い止めようと、この地に大本営を構え自ら指揮をとった。刻々と悪化する戦局に、容保は遂に自己の護衛として引き連れていた白虎隊の士中2番隊に応援出撃を命じる。当時、白虎隊の編成年齢は弱冠16〜17歳。全員が初陣だった。
 市内で当時の戦の刀傷が残る建物はここ「旧滝沢本陣」だけだという。縁側に座り、歴代藩主も眺めただろう遠州流の庭園に目を馳せる。そこにはかつてこの地に流れた荒々しい時代が嘘のような、穏やかな光と影が初秋の長閑さを象っていた。

02客室和洋室.jpg27幻の湯.jpg31かわかぜ足湯.jpg
06夕食.jpg10夕食.jpg15語り部.jpg16貸切十六夜の湯.jpg
20朝食.jpg21朝食.jpg23庄助の湯.jpg03能舞台客室より.jpg

川に寄り添う貸切露天で、
湯遊び三昧の庄助極楽。

 「瀧の湯」の数ある貸切露天風呂を楽しむ算段(笑)で、今日は少し早めのチェックイン。まず夕食前に向かった「幻の湯」は、肩まで浸かればまるで川遊びしているような愉快な目線が味わえる貸切風呂だ。“幻”の名は、川の増水により風呂の姿が消えるところにあるらしい。広い湯船は家族旅行での賑やかな湯遊びにも最適。すぐ隣の「かわかぜ足湯」では、無料のビールやところ天で湯上りのほてり冷ましも贅沢に満喫できる(笑)。
 今夜の夕食は、我が家気分で楽しめる部屋食スタイル。名残の季節があしらわれた献立は、濃厚な温泉卵でいただく福島牛の「出汁牛すき焼き」をはじめ、夏バテを吹き飛ばすボリューム感だ(笑)。頃合をみて出来立ての料理を運んでくれる中居さんとの気さくな会話も心を和ませてくれる。
 夕食後、中居さんに勧められて向かったロビーラウンジでは、語り部による会津弁の民話会を鑑賞。対岸の能舞台「花心殿」には会津の歴史映像も映し出され、自然空間を利用した立体的な演出も。
 就寝前には「十六夜の湯」で夫婦だんらん。風呂は特注の“信楽焼”の巨大な湯船が川に面して2つ並ぶ造りで、それぞれに温度が異なっている。周囲は瀬音だけが届く夜の静寂。昼とはまた違う妖しさで浮かぶ花心殿を、ふたり占めで仰ぐひととき。
 以前、大浴場で楽しんだ「庄助酒風呂」(詳細はこちらのブログを参照)同様、翌朝に向かった「庄助の湯」は、地元の蔵元から譲り受けた日本酒の“麹釜”を利用したユニークな風呂だ。酒と風呂をこよなく愛した、まさに庄助さんらしい朝湯をどっぷりと満喫(笑)。貸切風呂は1回45分の利用で、朝4時半から深夜1時まで楽しめる(状況によって変更)。希望するなら宿泊予約やチェックインの際に早めに申し出しておくといい。
 腹を空かせていただいた朝食の旨さは格別だ。ひとまわり若返った気分で、名物の餅料理を2皿ペロリと平らげる(笑)。さあ、今日はいざ飯盛山に出陣だ。

17飯盛山仲見世.jpg18飯盛山仲見世.jpg19飯盛山仲見世.jpg
23飯盛山仲見世.jpg25飯盛山仲見世.jpg26飯盛山仲見世.jpg27飯盛山仲見世.jpg

思い出を辿る大人の修学旅行。
飯盛山参道のぶらり歩き。

 飯盛山まではホテルから車で数分。麓にある無料の市営駐車場に車を停め、そこから墓所まで仲見世の続く道を歩いて向かう。道には地元の小学生らしい一団が、誘惑満載のご当地ファストフードや土産物の前でたむろしている(笑)。微笑ましいその光景に、数十年前、修学旅行でここを訪れた自分の姿が重なる。店の方に伺えば、子供たちの人気No.1土産は、今も昔も変わらぬ“白虎刀”(!)だという(笑)。
 ほのぼのとした賑わいにほだされ、私たちも素朴な味わいの「あわまんじゅう」と「茶まんじゅう」(双方1個97円)を購入。店の休憩所の奥にある伝統工芸品コーナーでは、職人が「絵ろうそく」の絵付け最中のようだ。手間のかかる工程をすべて手作業で行う会津絵ろうそくは時の藩主、芦名盛信公が漆樹の繁殖栽培を奨励し、漆器の製造と共に、その実から採れる高価な“木ろう”を利用して作らせたことに始まるという。菊や牡丹、藤など季節の草花が鮮やかに描かれたろうそくは、高級な贈答品として重宝され、婚礼の席には一対が灯され、これが“華燭の典”の語源になったとも言われる。

28飯盛山.jpg31飯盛山参道.jpg32飯盛山戸ノ口堰洞穴.jpg33飯盛山戸ノ口堰洞穴.jpg
38飯盛山さざえ堂.jpg36飯盛山さざえ堂01.jpg37飯盛山さざえ堂.jpg
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武士の本分を一途に貫いた
白虎隊士の悲劇と純情。

 飯盛山の墓所へは、中央の石段をひたすら登る最短の新参道と、石段を迂回し、ゆるやかな坂道を登る旧参道がある。私たちが進んだのは登りやすい旧参道。この道沿いには白虎隊記念館や永徳年間(1381〜83)に建立された「厳島神社」、戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊が城へ退却する際に通った「戸ノ口堰洞穴」、そして巻貝のような独特の形から通称「さざえ堂」と呼ばれる観音堂がある。
 懐かしさに拝観料(大人400円)を支払い、数十年ぶりで「さざえ堂」の中を見学。内部は入口から出口まで階段のない斜路が続き、降りてくる人と決してすれ違わない一方通行の二重螺旋構造だ。この仏塔が200年以上前に造られたのだから驚きだ。とはいえ、感心する私たちの脇をはしゃぎながら登る子供達にとっては、あの頃の私と同じ、年代物のアトラクションといったところらしい(笑)。敷地内には白虎隊19士の霊像が安置された「宇賀神社」も見え、売店の展望テラスから眼下に見晴らす市街地の景色が、墓所が近いことを教えてくれる。
 目指す場所はそこから歩いてすぐ。視界が開けた広場の奥に整然と並ぶ19石の墓前には、真新しい花や線香がたむけられていた。当時、白虎隊は総勢343名。そのうち戸ノ口原に向かったのは士中2番隊の37名。うち17名が無事入城を果たすが、残りの20名はこの山で火煙に包まれる城を目にし自刃。蘇生した1名を除く19名が若い命を落とした。墓石の傍らには、各地で戦死した白虎隊「三十一士の墓」や「会津藩殉難烈婦碑」、隊士の精神に感銘したローマやドイツから寄贈された顕彰記念碑もあった。
 「白虎隊自刃の地」は、そこから「飯沼貞吉の墓」(19志士の唯一の生存者)の前を過ぎ、鶴ヶ城を見下ろす東側の山腹の墓地に囲まれた場所にある。少年らと同じ場所に立ち、彼らが見たであろう方角に城の姿を探してみる。…微かに見えるその小ささに思わず絶句。ここから市中火災の模様を目にすれば、自刃を決意するのも無理はない。白虎隊について詳しく知りたいなら、参道沿いにある白虎隊記念館もぜひ訪れて欲しい。

64妙國寺.jpg66妙國寺白虎隊埋葬碑.jpg67妙國寺.jpg69蚕養国神社☆.jpg
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76太郎庵ラーメンプリン.jpg79太郎庵.jpg78太郎庵休処.jpg75太郎庵土人形.jpg

千年を生きる桜老樹の神木。
会津で出会う祈りの系譜。

 飯盛山の近くには当時、逆賊として埋葬が許されなかった隊士の亡骸を密かに仮埋葬した「白虎隊自刃仮埋葬地」の「妙國寺」もある。1394(応永元)年に開山した寺は、会津藩が降伏後、藩主松平容保父子が一ヶ月間謹慎した場所としても知られている。慰霊碑は山門の右手、墓所に囲まれた静かな場所にひっそりと建っている。
 その名に魅かれて立ち寄った、日本で唯一“蚕”の名をいただく「蚕養国神社(こがいくにじんじゃ)」は、会津若松駅と飯盛山を結ぶ白虎通りを少し入った場所だ。創建は811(弘仁2)年。“こがいさま”の名でも親しまれる社は、諸業繁栄の神として県内外から今も篤く信仰されている。ここにある樹齢1,000年の御神木「峰張桜」は会津五桜のひとつ。社は春の桜はもちろん、これからの季節は紅葉の名スポットらしい。
 帰りに手土産を求め訪れた「太郎庵」(総本店)は、会津の素材による菓子づくりで定評の菓子舗。オリジナリティあふれる和洋菓子が所狭しと並ぶ店内には、無料の珈琲やお茶が楽しめる喫茶コーナーも併設され、観光がてらの休憩にもおすすめだ。会津エリアらしい楽しい創作洋菓子「ラーメンプリン」(432円)と、瀧の湯での民話にも登場した“みしらず柿”のゼリー「会津見知らず」(258円)を私たちも購入し、早速、ひと休み(笑)。店の2階には自由に鑑賞できる全国の土人形を集めたミニ展示館もあった。
 「白虎隊」ゆかりの地を歩いた今回。そもそも“白虎”は中国の伝説上の聖獣で、西方を守護する“四神”のひとつだ。一説では四神の中で最も若い存在とも言われ、「白虎隊」の名もそこからきているのかもしれない。飯盛山から燃え盛る城下を眺めた白虎隊士たち。図らずも五行思想で“火”を示す“白”と結びつくのは天の悪戯だろうか。そんなことに想いを巡らせる初秋の会津紀行だった。







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2015年07月10日

6月 会津藩主松平家・近藤勇・新島八重の墓参り


肌で感じるもうひとつの会津。
歴史舞台のいまを訪ねて。

2015年6月某日

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06背あぶり山おけいの碑s.jpg05背あぶり山から会津s.jpg04背あぶり山s.jpg01背あぶり山風車s.jpg

 誰にでも、大人になってもう一度、訪ねてみたいところがひとつくらいはあるだろう。会津はそんな場所だ。鶴ヶ城の再建50周年を迎える今年。まだまだ知らない史都の素顔に逢いに一路、初夏の会津路へ。
 福島県西部、磐梯山と猪苗代湖の美しい景観で知られる会津地方。その中心地、会津若松市は、戦国時代から江戸時代にかけ盛えた城下町だ。市内には希少な歴史遺構も多く、街中心部から、車でわずか10分程の場所には拠点観光に便利な東山温泉もある。
 温泉の入口にある「背あぶり山」は、かつて会津若松への行商のため、猪苗代湖側から朝陽を浴びてこの山を越えた人々が、帰りは背に夕陽を浴びながら戻ったことにその名を由来する。標高870mの山頂までは車で20分程度だろうか。「日本森林浴の森100選」に選ばれた山は、約200種類もの山野草の他、多くの野鳥類が生息する動植物の宝庫で、レストハウスやキャンプ場、散策路も整備されている。頂きに広がる平原には、日本初の女性移民として渡米し、熱病により19歳で早世した会津出身の娘、おけいを偲ぶ追善墓碑が眼下に懐かしい故郷を見つめていた。
 近世、滝沢峠が開通するまでは、この山の峠が若松から白河に至る白河街道筋だったという。1590(天正18)年、奥州仕置の折にやってきた豊臣秀吉は、猪苗代湖、磐梯山、飯豊連峰等を望む山頂の眺望に感動し、ここで茶会を催したことから“関白平”の名も残されている。周辺は市内唯一の風力発電の好スポットで、視界の抜けた木立の間からは巨大な風車が、天に聳える祈りの塔のように不思議な光景を奏でていた。

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心遣いと遊び心に感じ入る、
庄助気分の湯三昧宿。

 開湯1,300年。古く“天寧の湯”と呼ばれた東山温泉は、湯川沿いに立ち並ぶ宿の風情ある佇まいが土方歳三や竹久夢二、与謝野晶子らに愛されたことでも知られる。
 「庄助の宿 瀧の湯」はその名のとおり、民謡「会津磐梯山」に登場する“小原庄助さん”ゆかりの宿だ。眼下を流れるせせらぎと山の緑を借景にした館内は、シックなインテリアと吟味された調度品が上質なアートギャラリーを思わせる。「あれ何かしら?」ふと、連れが指差した対岸の断崖には、宿が誇る能舞台「花心殿」の姿も。
 お迎えのサプライズは、お抹茶と水羊羹、そしてこれぞ“庄助の宿”!と小躍りしたくなる日本酒の振舞い酒(笑)。ラウンジには女性客向けの“からふる浴衣”の無料貸し出しコーナもあり、連れはすでに浴衣選びに夢中だ(笑)。
 目的によって選べる豊富な部屋タイプは、全室から湯川のせせらぎが望めるという。ミニせいろで楽しむ蒸したて饅頭をほおばりながら、「いいところだなぁ」と、長話に興じるひとときに、ゆるゆると夜の帳が降りていく。
 楽しみの夕膳は、身欠きニシンや棒たらといった、会津ならではの保存食に、料理人の創意あふれる現代の手技が融合した、月替りの「会津郷土会席料理」。今日のメインは“会津牛”を「出汁牛すき焼き」と「牛酒彩吟醸焼」の異なる2つの調理法でいただく趣向だ。秘伝の酒粕味噌ダレに漬け込んで焼き上げる「牛酒彩吟醸焼」は、食欲をそそる風味と香ばしさに、ついつい猪口の出番が多くなる乙な美味だった(笑)。

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 満を持して向かった大浴場「庄助風呂」は、ライトアップされた“伏見ヶ滝”が目前にせまる感動の劇場空間。マイナスイオンたっぷりの露天風呂の湯心地はさらに清涼で、夜の静寂にごうごうと鳴り響く瀑布が、青や緑の光に浮かび上がる姿も、まさに幻想的。酒の麹釜を風呂桶にしつらえたという「庄助酒風呂」も、長湯に配慮した嬉しい“ぬる湯”だ。
 宿の心配りはこれだけではない。足湯もある湯上り処にはビールやところてんの無料サービスもあり、風呂に持ち込んで楽しめる名作小説や、好みの洗髪剤を自由にセレクトできる女性に好評のシャンプーバー等、風呂を楽しませる愉快な“庄助さん”演出にあふれている。翌朝に楽しんだ6つある貸切風呂のひとつ「屋上貸切露天風呂 月見の湯」も、夜には会津若松市街の夜景を一望できる贅沢な演出。もちろん、昼は空を独り占めにする鳥の眺めが堪能できる。
 評判の餅料理をはじめ、地野菜と丁寧にこしらえたふるさとの手料理が並ぶ「おふくろバイキング」の朝食も、心和む素朴な味揃い。部屋にある館内の売店等で自由に利用できるおトクな割引クーポンブックといい、滞在の楽しさをとことんもてなす心遣いには感服だ。お迎えから見送りまで。つかず離れず客の自由を大切にした細やかな心遣いは、会津魂の真髄だろうか。再来を連れと誓い合い、名残惜しい気分でチェックアウトとなった。

30松平家墓所前通りs.jpg09松平家墓所s.jpg10松平家墓所西之御庭s.jpg
25松平家墓所s.jpg18松平家墓所s.jpg23松平家墓所九代容保s.jpg31鶴井筒s.jpg32鶴井筒s.jpg33鶴井筒s.jpg
40鶴井筒s.jpg41鶴井筒s.jpg42鶴井筒ネパール博物館s.jpg45鶴井筒ネパール博物館s.jpg

壮大な敷地に配された終の住処、
会津藩主松平家墓所。

 宿からすぐの場所には、2代正経から9代容保までの歴代会津藩主が眠る「会津藩主松平家墓所」もある。蔵や民家が立ち並ぶ路地を抜けた先の案内板によれば、墓所は院内山と呼ばれる山の山腹に点在しているらしい。その面積、なんと約15万u。苔むした石垣や灯籠。人界と一線を画す静まり返った墓所は聖域らしい厳かな雰囲気。木立が陽射しを遮る涼しい山間は森林浴にも最適で、新緑や紅葉の時期に散策を兼ね訪れる人も多いという。
 墓は2代正経のみが仏式で、それ以外は亀趺坐(きふざ)と呼ばれる亀型の石の上に巨大な碑石を建て石燈籠、表石、鎭石(しずめいし)を配した神式。規模の大きさや墓碑の景観は、江戸時代の大名家墓所の中でも他に類を見ないものだ。広大な敷地に威厳を放ちそびえる墓標群は必見の景観だろう。
 幕末の動乱を生きた9代容保公の墓は、想像以上に簡素な造りだった。公がこの地に埋葬されたのは汚名が晴れた1917(大正6)年。逝去してから実に24年後のこと。悲運の生涯に、2人で静かに手を合わせる。墓所はぐるりと廻って1時間程度だ。足に自信の無い方なら8代容敬(かたたか)の墓の脇へと出る車道からのルートもある(駐車場無)。
 昼どきは築100年を超える、明治時代の大地主の豪邸を移築した「鶴井筒(つるいつつ)」へ。身分制度の名残だという3つの囲炉裏がある内部は、本漆を塗った裏板や欅の太い梁など重厚感あふれる佇まい。ここでは地そばをはじめ、会津の地酒や郷土料理を、伝統工芸である会津本郷焼や会津塗の器で雰囲気たっぷりに楽しめる。人気は名物が一度に味わえる「会津の味 まるかじりセット」(写真は〈祭り〉1,620円)。揚げたてホクホクの「饅頭の天ぷら」(330円)も楽しい旨さだ。
 3層になった建物の2、3階には仏都、会津にちなんだ「ネパール博物館」もあり、食事をすると無料で鑑賞できる。表情や仕草など、人間味あふれる南アジアの仏像は艶美で実にユーモラス。ワールドワイドな仏の世界に興味のある方はぜひ。

49天寧寺s.jpg51天寧寺s.jpg52天寧寺s.jpg53天寧寺s.jpg
54天寧寺s.jpg55天寧寺s.jpg56天寧寺近藤勇墓s.jpg57天寧寺近藤勇墓s.jpg58天寧寺近藤勇墓近より会津s.jpg60熊野神社s.jpg48正法寺s.jpg

城を見晴らす盟友の墓標。
土方歳三の心に触れる古刹。

 ところで、会津には幕末の戊辰戦争で刑死した新撰組隊長、近藤勇の墓もある。場所は“天寧の湯”の名の由来にもなった「天寧寺」。近藤の墓は日本各所にあるがこの寺のものは、土方歳三が遺体の一部を葬ったものとされている。
 境内には戊辰戦争の際、責任を負い自刃した家老、萱野権兵衛とその次男、郡長正の父子の墓所もあり案内板も整備されている。丁度、私たちが訪れた折も、墓参りの帰りとおぼしき若い女性が下りてくるところだった。
 近藤勇の墓は本堂脇の桜並木から、裏山へと続く急な山道を登った先にあった。訪れるファンが後を絶たないのだろう。傍らには、人々が想いを綴ったノートがケースの中に山積みになっている。墓所には近藤を慕うように、土方歳三の慰霊碑も寄り添っていた。
 実は墓が発見されたのは、比較的新しい昭和30年代のこと。一説では新政府軍の破壊を恐れ、敢えて隠されたとも伝わる。遠く会津若松市街地と城を見晴らす山の斜面に立てば、この地を盟友の墓所に選んだ歳三の想いが込み上げてくる。毎年4月25日の命日には墓前祭りも行われ、今なお全国から人々が追善に集うのだという。
 会津二十一地蔵尊の第十番でもある寺には、難や病の身代りとなってくれる“首無身代り地蔵尊”もある。京都でさらされた近藤の首を奪い去り埋葬したとも伝わる墓との奇妙な縁は、ただの偶然だろうか。近くには上杉景勝ゆかりの「正法寺」の姿も見え、名だたる戦国武将が往来した街の歴史の奥深さに、あらためて感慨を覚える。

61大龍寺s.jpg62大龍寺s.jpg64大龍寺s.jpg68大龍寺小笠原長時墓s.jpg
67大龍寺山本家墓八重筆s.jpg66大龍寺山本家墓s.jpg70大龍寺本堂s.jpg71大龍寺本堂幽霊の足跡s.jpg
74大龍寺本堂より庭園s.jpg69大龍寺クジャクs.jpg76大龍寺奥籠s.jpg79大龍寺御朱印s.jpg

戦火を逃れた侍寺が語り継ぐ、
悲運の歴史と不思議な宿縁。

 最後に訪れた「大龍寺」は大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなった、新島八重ら山本家の菩提寺だ。寺は武家礼法の流派である小笠原流の祖、小笠原長時の墓所であった地を1643(寛永20)年、機外禅師が拝領し開山。戊辰戦争の際には、小笠原藩(福岡県)ゆかりの寺という理由から、戦火をまぬかれたのだという。江戸時代初期の希少な建築様式を残す寺には、戊辰戦争殉難殉節供養碑をはじめ、会津藩士の墓も多い。一角には、八重が点在していた山本家の墓を集め、自書による墓標を建立した山本家墓所もあった。
 余談だが、ここには幽霊が残したと伝わる“幽霊の足跡”もある(笑)。朗らかで気さくな寺の女将さんに見せていただいた拝殿床には、確かに人の足跡のような窪みが。「幽霊の声も聞こえますよ」と、促す言葉に周囲を歩けば、キュッキュッと足元から人の泣くような音がする。“うぐいす張り”だ。
 一服のお茶とお菓子をすすめられてお邪魔した奥座敷からは、小堀遠州の流れを汲む目黒浄定が作庭した心字庭園も見える。庭は京都の嵐山から移した“大龍寺のかえで”をはじめとする楓の名園で、裏山一面が真赤に色付く秋の美しさはそれは見事らしい。
 流れた時が穏やかな風格となった佇まいは、仏の手の内のように温かな居心地。女将さんの嫁入りと一緒にやってきたという、境内で時折いななく孔雀の鮮やかな尾羽に、浄土の極彩色が重なる。容保の姉の照姫が実際に使用した竹製の“輿”など、長い歴史を誇る寺の所蔵品は、いずれも博物館級の見応えだ。小笠原長時が家臣に託した門外不出の“白牡丹”が、不思議な縁によって450年の時を超え、いま長時の墓所に咲いているという逸話も心を打つ美談だった。
 故郷を愛し、譲れない誇りに命を掛けた人々の想いは、時を超えてなお、この地に脈動している。奇しくも容保公の享年と同じ年でこの地に導かれたのも、何かの巡り合わせだろうか。会津を旅するならぜひ、土方歳三も愛した歴湯に身も心もどっぷりと浸かり、会津人の豪快な心意気ごと味わって欲しい。その懐に飛び込んでこそ、街は素顔の物語を語りかけてくる。私たちの旅は、まだまだ始まったばかりだ。






posted by aizuaruku at 14:13 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする