2015年07月10日

6月 会津藩主松平家・近藤勇・新島八重の墓参り


肌で感じるもうひとつの会津。
歴史舞台のいまを訪ねて。

2015年6月某日

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06背あぶり山おけいの碑s.jpg05背あぶり山から会津s.jpg04背あぶり山s.jpg01背あぶり山風車s.jpg

 誰にでも、大人になってもう一度、訪ねてみたいところがひとつくらいはあるだろう。会津はそんな場所だ。鶴ヶ城の再建50周年を迎える今年。まだまだ知らない史都の素顔に逢いに一路、初夏の会津路へ。
 福島県西部、磐梯山と猪苗代湖の美しい景観で知られる会津地方。その中心地、会津若松市は、戦国時代から江戸時代にかけ盛えた城下町だ。市内には希少な歴史遺構も多く、街中心部から、車でわずか10分程の場所には拠点観光に便利な東山温泉もある。
 温泉の入口にある「背あぶり山」は、かつて会津若松への行商のため、猪苗代湖側から朝陽を浴びてこの山を越えた人々が、帰りは背に夕陽を浴びながら戻ったことにその名を由来する。標高870mの山頂までは車で20分程度だろうか。「日本森林浴の森100選」に選ばれた山は、約200種類もの山野草の他、多くの野鳥類が生息する動植物の宝庫で、レストハウスやキャンプ場、散策路も整備されている。頂きに広がる平原には、日本初の女性移民として渡米し、熱病により19歳で早世した会津出身の娘、おけいを偲ぶ追善墓碑が眼下に懐かしい故郷を見つめていた。
 近世、滝沢峠が開通するまでは、この山の峠が若松から白河に至る白河街道筋だったという。1590(天正18)年、奥州仕置の折にやってきた豊臣秀吉は、猪苗代湖、磐梯山、飯豊連峰等を望む山頂の眺望に感動し、ここで茶会を催したことから“関白平”の名も残されている。周辺は市内唯一の風力発電の好スポットで、視界の抜けた木立の間からは巨大な風車が、天に聳える祈りの塔のように不思議な光景を奏でていた。

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心遣いと遊び心に感じ入る、
庄助気分の湯三昧宿。

 開湯1,300年。古く“天寧の湯”と呼ばれた東山温泉は、湯川沿いに立ち並ぶ宿の風情ある佇まいが土方歳三や竹久夢二、与謝野晶子らに愛されたことでも知られる。
 「庄助の宿 瀧の湯」はその名のとおり、民謡「会津磐梯山」に登場する“小原庄助さん”ゆかりの宿だ。眼下を流れるせせらぎと山の緑を借景にした館内は、シックなインテリアと吟味された調度品が上質なアートギャラリーを思わせる。「あれ何かしら?」ふと、連れが指差した対岸の断崖には、宿が誇る能舞台「花心殿」の姿も。
 お迎えのサプライズは、お抹茶と水羊羹、そしてこれぞ“庄助の宿”!と小躍りしたくなる日本酒の振舞い酒(笑)。ラウンジには女性客向けの“からふる浴衣”の無料貸し出しコーナもあり、連れはすでに浴衣選びに夢中だ(笑)。
 目的によって選べる豊富な部屋タイプは、全室から湯川のせせらぎが望めるという。ミニせいろで楽しむ蒸したて饅頭をほおばりながら、「いいところだなぁ」と、長話に興じるひとときに、ゆるゆると夜の帳が降りていく。
 楽しみの夕膳は、身欠きニシンや棒たらといった、会津ならではの保存食に、料理人の創意あふれる現代の手技が融合した、月替りの「会津郷土会席料理」。今日のメインは“会津牛”を「出汁牛すき焼き」と「牛酒彩吟醸焼」の異なる2つの調理法でいただく趣向だ。秘伝の酒粕味噌ダレに漬け込んで焼き上げる「牛酒彩吟醸焼」は、食欲をそそる風味と香ばしさに、ついつい猪口の出番が多くなる乙な美味だった(笑)。

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 満を持して向かった大浴場「庄助風呂」は、ライトアップされた“伏見ヶ滝”が目前にせまる感動の劇場空間。マイナスイオンたっぷりの露天風呂の湯心地はさらに清涼で、夜の静寂にごうごうと鳴り響く瀑布が、青や緑の光に浮かび上がる姿も、まさに幻想的。酒の麹釜を風呂桶にしつらえたという「庄助酒風呂」も、長湯に配慮した嬉しい“ぬる湯”だ。
 宿の心配りはこれだけではない。足湯もある湯上り処にはビールやところてんの無料サービスもあり、風呂に持ち込んで楽しめる名作小説や、好みの洗髪剤を自由にセレクトできる女性に好評のシャンプーバー等、風呂を楽しませる愉快な“庄助さん”演出にあふれている。翌朝に楽しんだ6つある貸切風呂のひとつ「屋上貸切露天風呂 月見の湯」も、夜には会津若松市街の夜景を一望できる贅沢な演出。もちろん、昼は空を独り占めにする鳥の眺めが堪能できる。
 評判の餅料理をはじめ、地野菜と丁寧にこしらえたふるさとの手料理が並ぶ「おふくろバイキング」の朝食も、心和む素朴な味揃い。部屋にある館内の売店等で自由に利用できるおトクな割引クーポンブックといい、滞在の楽しさをとことんもてなす心遣いには感服だ。お迎えから見送りまで。つかず離れず客の自由を大切にした細やかな心遣いは、会津魂の真髄だろうか。再来を連れと誓い合い、名残惜しい気分でチェックアウトとなった。

30松平家墓所前通りs.jpg09松平家墓所s.jpg10松平家墓所西之御庭s.jpg
25松平家墓所s.jpg18松平家墓所s.jpg23松平家墓所九代容保s.jpg31鶴井筒s.jpg32鶴井筒s.jpg33鶴井筒s.jpg
40鶴井筒s.jpg41鶴井筒s.jpg42鶴井筒ネパール博物館s.jpg45鶴井筒ネパール博物館s.jpg

壮大な敷地に配された終の住処、
会津藩主松平家墓所。

 宿からすぐの場所には、2代正経から9代容保までの歴代会津藩主が眠る「会津藩主松平家墓所」もある。蔵や民家が立ち並ぶ路地を抜けた先の案内板によれば、墓所は院内山と呼ばれる山の山腹に点在しているらしい。その面積、なんと約15万u。苔むした石垣や灯籠。人界と一線を画す静まり返った墓所は聖域らしい厳かな雰囲気。木立が陽射しを遮る涼しい山間は森林浴にも最適で、新緑や紅葉の時期に散策を兼ね訪れる人も多いという。
 墓は2代正経のみが仏式で、それ以外は亀趺坐(きふざ)と呼ばれる亀型の石の上に巨大な碑石を建て石燈籠、表石、鎭石(しずめいし)を配した神式。規模の大きさや墓碑の景観は、江戸時代の大名家墓所の中でも他に類を見ないものだ。広大な敷地に威厳を放ちそびえる墓標群は必見の景観だろう。
 幕末の動乱を生きた9代容保公の墓は、想像以上に簡素な造りだった。公がこの地に埋葬されたのは汚名が晴れた1917(大正6)年。逝去してから実に24年後のこと。悲運の生涯に、2人で静かに手を合わせる。墓所はぐるりと廻って1時間程度だ。足に自信の無い方なら8代容敬(かたたか)の墓の脇へと出る車道からのルートもある(駐車場無)。
 昼どきは築100年を超える、明治時代の大地主の豪邸を移築した「鶴井筒(つるいつつ)」へ。身分制度の名残だという3つの囲炉裏がある内部は、本漆を塗った裏板や欅の太い梁など重厚感あふれる佇まい。ここでは地そばをはじめ、会津の地酒や郷土料理を、伝統工芸である会津本郷焼や会津塗の器で雰囲気たっぷりに楽しめる。人気は名物が一度に味わえる「会津の味 まるかじりセット」(写真は〈祭り〉1,620円)。揚げたてホクホクの「饅頭の天ぷら」(330円)も楽しい旨さだ。
 3層になった建物の2、3階には仏都、会津にちなんだ「ネパール博物館」もあり、食事をすると無料で鑑賞できる。表情や仕草など、人間味あふれる南アジアの仏像は艶美で実にユーモラス。ワールドワイドな仏の世界に興味のある方はぜひ。

49天寧寺s.jpg51天寧寺s.jpg52天寧寺s.jpg53天寧寺s.jpg
54天寧寺s.jpg55天寧寺s.jpg56天寧寺近藤勇墓s.jpg57天寧寺近藤勇墓s.jpg58天寧寺近藤勇墓近より会津s.jpg60熊野神社s.jpg48正法寺s.jpg

城を見晴らす盟友の墓標。
土方歳三の心に触れる古刹。

 ところで、会津には幕末の戊辰戦争で刑死した新撰組隊長、近藤勇の墓もある。場所は“天寧の湯”の名の由来にもなった「天寧寺」。近藤の墓は日本各所にあるがこの寺のものは、土方歳三が遺体の一部を葬ったものとされている。
 境内には戊辰戦争の際、責任を負い自刃した家老、萱野権兵衛とその次男、郡長正の父子の墓所もあり案内板も整備されている。丁度、私たちが訪れた折も、墓参りの帰りとおぼしき若い女性が下りてくるところだった。
 近藤勇の墓は本堂脇の桜並木から、裏山へと続く急な山道を登った先にあった。訪れるファンが後を絶たないのだろう。傍らには、人々が想いを綴ったノートがケースの中に山積みになっている。墓所には近藤を慕うように、土方歳三の慰霊碑も寄り添っていた。
 実は墓が発見されたのは、比較的新しい昭和30年代のこと。一説では新政府軍の破壊を恐れ、敢えて隠されたとも伝わる。遠く会津若松市街地と城を見晴らす山の斜面に立てば、この地を盟友の墓所に選んだ歳三の想いが込み上げてくる。毎年4月25日の命日には墓前祭りも行われ、今なお全国から人々が追善に集うのだという。
 会津二十一地蔵尊の第十番でもある寺には、難や病の身代りとなってくれる“首無身代り地蔵尊”もある。京都でさらされた近藤の首を奪い去り埋葬したとも伝わる墓との奇妙な縁は、ただの偶然だろうか。近くには上杉景勝ゆかりの「正法寺」の姿も見え、名だたる戦国武将が往来した街の歴史の奥深さに、あらためて感慨を覚える。

61大龍寺s.jpg62大龍寺s.jpg64大龍寺s.jpg68大龍寺小笠原長時墓s.jpg
67大龍寺山本家墓八重筆s.jpg66大龍寺山本家墓s.jpg70大龍寺本堂s.jpg71大龍寺本堂幽霊の足跡s.jpg
74大龍寺本堂より庭園s.jpg69大龍寺クジャクs.jpg76大龍寺奥籠s.jpg79大龍寺御朱印s.jpg

戦火を逃れた侍寺が語り継ぐ、
悲運の歴史と不思議な宿縁。

 最後に訪れた「大龍寺」は大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなった、新島八重ら山本家の菩提寺だ。寺は武家礼法の流派である小笠原流の祖、小笠原長時の墓所であった地を1643(寛永20)年、機外禅師が拝領し開山。戊辰戦争の際には、小笠原藩(福岡県)ゆかりの寺という理由から、戦火をまぬかれたのだという。江戸時代初期の希少な建築様式を残す寺には、戊辰戦争殉難殉節供養碑をはじめ、会津藩士の墓も多い。一角には、八重が点在していた山本家の墓を集め、自書による墓標を建立した山本家墓所もあった。
 余談だが、ここには幽霊が残したと伝わる“幽霊の足跡”もある(笑)。朗らかで気さくな寺の女将さんに見せていただいた拝殿床には、確かに人の足跡のような窪みが。「幽霊の声も聞こえますよ」と、促す言葉に周囲を歩けば、キュッキュッと足元から人の泣くような音がする。“うぐいす張り”だ。
 一服のお茶とお菓子をすすめられてお邪魔した奥座敷からは、小堀遠州の流れを汲む目黒浄定が作庭した心字庭園も見える。庭は京都の嵐山から移した“大龍寺のかえで”をはじめとする楓の名園で、裏山一面が真赤に色付く秋の美しさはそれは見事らしい。
 流れた時が穏やかな風格となった佇まいは、仏の手の内のように温かな居心地。女将さんの嫁入りと一緒にやってきたという、境内で時折いななく孔雀の鮮やかな尾羽に、浄土の極彩色が重なる。容保の姉の照姫が実際に使用した竹製の“輿”など、長い歴史を誇る寺の所蔵品は、いずれも博物館級の見応えだ。小笠原長時が家臣に託した門外不出の“白牡丹”が、不思議な縁によって450年の時を超え、いま長時の墓所に咲いているという逸話も心を打つ美談だった。
 故郷を愛し、譲れない誇りに命を掛けた人々の想いは、時を超えてなお、この地に脈動している。奇しくも容保公の享年と同じ年でこの地に導かれたのも、何かの巡り合わせだろうか。会津を旅するならぜひ、土方歳三も愛した歴湯に身も心もどっぷりと浸かり、会津人の豪快な心意気ごと味わって欲しい。その懐に飛び込んでこそ、街は素顔の物語を語りかけてくる。私たちの旅は、まだまだ始まったばかりだ。





【会津藩主松平家・近藤勇・新島八重の墓参り 詳細】



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■背あぶり山
会津盆地と猪苗代湖を隔てる山。標高870mの頂上からの眺めは雄大で、会津平野や猪苗代湖をはじめ、北東に磐梯山や吾妻連峰、安達太良連峰、北西に飯豊連峰、南には大戸岳や小野岳が望めることから、会津地方の展望台とも呼ばれている。総面積500haの自然休養林は「日本森林浴の森100選」のひとつで、森の中には遊歩道も整備。山頂付近には展望台、フィールドアスレチック、キャンプ場などもある。“背あぶり”の名は昔、地元の人々がこの山を越えて、行商や山仕事に行く途中、朝は東から上る太陽を、帰りには沈む夕日を背にあびながら家路についたことに由来。

住所/福島県会津若松市東山町石山
TEL/0242-28-0062(背あぶり山レストハウス[現地事務所])
    0242-27-4005(一般財団法人 会津若松観光ビューロー)
営業期間/毎年4月下旬〜11月末日(「背あぶり山」までの県道閉鎖のため) 
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◎おけいの墓
背あぶり山の頂上から少し下の「黄金丘」と呼ばれる、会津盆地を見晴らす丘にある墓標。おけいは、日本の女性で初めての移民。熱病のため19歳で死去。1957(昭和3)年、カリフォルニア州ゴールドヒルにある墓と同じ形の墓碑が追善建立された。
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■東山温泉
約1300年前、高僧、行基により発見されたと言われる温泉。春は桜、初夏の新緑、秋は紅葉、冬の雪見風呂と、一年中その魅力があふれる会津の奥座敷で、奥羽三楽郷 (上山温泉、湯野浜温泉) のひとつ。江戸時代には藩の湯治場として栄え、竹久夢二や与謝野晶子らがこよなく愛したことでも知られる。民謡「会津磐梯山」の“朝寝、朝酒、朝湯が大好きで”のフレーズで登場する「小原庄助さん」もこの湯に浸かったとされ、新選組副長、土方歳三は、戊辰戦争で受けた傷を癒している。また、手塚治虫も3度逗留。旅館の名に冠せられるほど滝が多く伏見ヶ滝、向滝、原滝、雨降り滝は「東山四大滝」と呼ばれている。

◎会津いにしえ夢街道
若松城下の東に位置し、東山温泉入口から白虎隊ゆかりの滝沢本陣、飯盛山までの約3qの通り。山の手のこの地はかつて、会津藩主の鷹狩や桜狩などの行楽地としても栄え、若松が一望できることから会津の歴史を物語る博物館や資料館、体験施設、食事処、お土産店、宿泊施設などバラエティに富んだ施設、店舗が数多く点在している。会津の歴史と自然に触れることのできる最適な散策路。

■庄助の宿 瀧の湯
東山温泉の発祥の地、伏見ヶ滝を真横に望む創業130余年の湯宿。湯川渓谷や伏見ヶ滝を一望できる爽快な大浴場と露天風呂、6つの貸切風呂など、趣異なる風呂の豊富さで知られる。いつ訪れても新しさを感じる空間づくりにこだわった、シックで洗練されたインテリアや充実の施設も魅力。“地酒に合う庄助スタイル”をテーマした料理は、会津伝統の郷土料理を中心に、地元素材による料理人の感性あふれる月替りの献立が楽しめる。

[小原庄助さん]
会津民謡「会津磐梯山」の“朝寝、朝酒、朝湯が大好きで〜♪”のフレーズで知られる自由洒脱な人物。会津藩の藩祖である保科正之公の家臣で、苗字帯刀を許された郷頭(ごうがしら)。瀧の湯の縁戚にあたる。大の風呂好きで、当時、随一の湯治場として栄えた瀧の湯の源泉を愛顧したと言われ、瀧の湯が庄助風呂と呼ばれるゆえんとなった。

[土方歳三治療の湯]
宇都宮城の戦いで足首を撃たれ負傷した土方歳三は、藩の共同浴場であった「瀧の湯」でその傷を癒した。土方が建立した近藤勇の墓所のある天寧寺にもっとも近いのが、瀧の湯の共同浴場であった。当時の浴槽も現在と同じ、伏見ヶ滝の脇にあったと伝わる。

住所/福島県会津若松市東山温泉108
TEL/0242-29-1000
チェックイン 15:00 チェックアウト 10:00
立ち寄り入浴/入浴料金1,200円 *小タオル付 露天風呂あり
交通/JR会津若松駅からタクシーまたはバスで約15分
   磐越自動車道 会津若松ICから約15分
駐車場/有
※貸切風呂/チェックイン時に要予約
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へ 古の湯.jpgの 庄助酒風呂.JPGよ 星空の湯左DSCN8800★チルト無.JPG

《伏見ヶ滝》
上流にある雄滝と、下流にある雌滝からなる。雄滝は落差5m、雌滝は落差6m。古くから伝説の多い滝で「不思議な滝(不思議な力を持つ)」が訛って、「ふしみがだき」と呼ばれるようになったとされ、現在もパワースポットとして人々を癒し続けている。
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■会津藩主松平家墓所
「会津藩主松平家墓所」は、藩祖保科正之の長男正頼が亡くなった1657(明暦3)年、正之の命により院内山を開いたことに端を発する。「会津藩主松平家墓所」は、正式には会津若松市の院内山と猪苗代町の見禰山(みねやま)の2ヶ所の総称。院内山の墓所は通称「院内御廟」と呼ばれ親しまれている。面積は約15万uと広大で、墓域の中腹には西の御庭、中の御庭、入峰墓所と呼ばれる墓所がある。
西之御庭、中之御庭には各代藩主の夫人、側室、子女も葬られており、2代正経が唯一仏式で祀られている。一方、入峰墓所には3代正容(まさかた)から9代容保(かたもり)まで亀石の碑石、位階の表石、霊をまつる鎮石の三体形の神式で祀られ、巨大な墓碑が建ち並ぶ。墓所は正之が信奉していた吉川神道によって造られた非常に貴重なもので、江戸時代の大名の墓所の中でも類を見ない程の規模を誇り、国の史跡に指定。毎年5月4日には、歴代藩主の霊を慰める「院内ご廟お花まつり」も開催。静かな森の中に佇む墓所は、新緑の時期や紅葉の時期に散策をかねて訪れる人も多い。

住所/福島県会津若松市東山町大字石山字墓山
TEL./0242-39-1305(会津若松市役所教育委員会 文化課)
駐車場/無
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↓パンフレットはこちら
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■鶴井筒(つるいつつ)
明治30年代の大地主の邸宅を移築した店。来客用、平百姓用、小作人用と、当時の身分制度の名残をとどめる3つの囲炉裏がある豪壮な店内では地そばや田楽、小づゆといった、山国会津に昔から受け継がれている郷土料理や地酒が楽しめる。

住所/ 福島県会津若松市東山町石山字院内109-1
TEL/0242-26-5629
営業時間/10:00〜20:00(4月〜11月)
     10:00〜17:00(12月〜3月)
定休日/無休
駐車場/有
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◎ネパール博物館
鶴井筒の2、3階の屋根裏を利用した博物館(鈴木久雄氏コレクション)。日本では珍しくネパール、インド、チベットの歓喜仏を中心としたコレクションを展示。築100年を超える豪壮な館で、仏都、会津とネパールの不思議な結びつきを体感できる。

入場料/一律200円
営業時間/10:00〜20:00(4月〜11月)
     10:00〜17:00(12月〜3月)
定休日/無休
※鶴井筒で食事をしたお客様は無料
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■萬松山 天寧寺(てんねいじ)
1447(文安4)年に、会津地方でかつて大勢力を築いた蘆名氏11代盛信が創建し、楠正成の孫にあたる傑堂和尚(楠木正勝)が開山したと伝わる。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺33カ寺、僧堂12、最盛期には雲水1,000名を擁した蘆名氏の菩提寺。1589(天正17)年、血統が途絶えた蘆名氏の跡を継いだ佐竹義重の次男、義広が摺上原の戦いの折、伊達氏の侵攻にあい焼失。当時の遺構は本堂の礎石のみとなっている。境内には、会津二十一地蔵尊の第十番の「首無身代り地蔵尊」をはじめ、新選組組長、近藤勇や萱野権兵衛父子、明治維新後の会津藩士を描いた「會津士魂」の著者、早乙女貢の墓もある。

住所/福島県会津若松市東山町石山天寧208
TEL/0242−26−3906
駐車場/有
50天寧寺.JPG53天寧寺.JPG52天寧寺.JPG

◎早乙女貢の墓
2010(平成22)年、この地に改葬。曾祖父の為親が会津藩士の早乙女貢は、会津松平家の現当主松平保久氏(もりひさ)とも親交があり、会津藩へ強い思慕を抱いていた歴史小説家として知られる。ライフワークであった全13巻の「會津士魂」は吉川英治文学賞を受賞した代表作。

◎萱野権兵衛父子の墓
父、萱野権兵衛は、明治戊辰戦争の時、会津藩の国家老で事実上の責任者として激務にあたり、その後敗戦処理に際しては城明け渡し、藩主父子の助命嘆願などに力を尽くし、自らその責任をとり自刃した。
子、郡長政は、萱野権兵衛の次男で1870(明治3)年、小笠原藩(福岡県)の育徳館に留学し教育を受けた。ある日、長政は郷愁を覚え母に手紙を書いた。それに対し母から届いた戒めの手紙を落とし、小笠原藩士の子弟に大衆の面前で罵られたことで、会津武士の面目を保つため切腹して屈辱に応えた。ときに16歳であった。

◎近藤勇の墓
境内裏手には、戊辰戦争に敗れ刑死した新選組局長、近藤勇の墓がある。近藤勇の墓は板橋の刑場跡や出身地の三鷹市等、日本各所にあるが、天寧寺の墓は、土方歳三が京都三条河原にさらされた近藤勇の首か遺髪を持ち去り葬ったと伝えられている。1868(慶応4)年、宇都宮から会津へ逃れた新選組副長、土方歳三は、「天寧の湯」(東山温泉)で3ヶ月間療養し足の傷を癒したといわれ、近藤勇が板橋で処刑されたことを知ると、ここに墓を建て墓参を毎日欠かさなかったという。毎年、4月25日の命日には、墓前祭りが執り行われる。

 [近藤勇辞世歌碑]
 近藤勇辞世歌碑孤軍援絶作俘囚 (孤立し、援軍も絶え、囚われの身となる)
 顧念君恩涙更流 (君主の恩を顧みて、涙が更に流れる)
 一片丹衷能殉節 (真からの忠誠心、義のためなら命を捨てられる)
 雎陽千古是吾儔 (雎陽での張巡は、永遠の同志である)
 靡他今日復何言 (敵方に、今更何も言うことは無い)
 取義捨生吾所尊 (大義のためなら、命を捨てることは望むところだ)
 快受電光三尺剣 (首を刎ねる長剣を、快く受けよう)
 只将一死報君恩 (一死をもって、君主の恩に報いたい)
      
 ※「雎陽」 とは、中国の故事から。 
 唐代の武将、張巡が、雎陽城を守って賊軍(西軍)の安禄山と戦った。
 籠城戦で食料が尽き、愛妾を殺してその肉を将兵に与えて奮闘するも落城。
 屈せず死んだことから、忠臣の鑑と呼ばれている。
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■宝雲山 大龍寺
1643(寛永20)年、会津移封となった保科正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山した寺。礼儀作法の流派として名高い小笠原流の祖、小笠原長時の墓所となった桂山寺がその起源とされる。戊辰戦争の際には、小笠原藩(福岡県)ゆかりの寺であったことから戦火をまぬかれた。境内には、高祖父の時代から、この寺を菩提寺としていた山本家の墓所をはじめ、算学者の安藤有益や、多くの会津藩士族の墓所も並び、戊辰戦争殉難殉節供養の碑がある。また、京都の高雄、嵐山より紅葉を移植したかえでは「大龍寺のかえで」として名をなしている。本堂の裏には御薬園の作庭者でもある目黒浄定作の心字庭園もあり、モリアオガエルの生息地としても知られている。東北三十六不動尊霊場 第三十二番札所。

住所/福島県会津若松市慶山2-7-23
TEL/0242-27-9376
駐車場/有
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◎山本家の墓
新島(山本)八重は、亡くなる前年の1931(昭和6)年、点在していた山本家の墓を一カ所にまとめ、墓標を建立。墓標の表には八重自身が書いたといわれる「山本家之墓」の文字が、裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれている。
66大龍寺山本家墓.JPG67大龍寺山本家墓八重筆.JPG

◎小笠原長時の墓
小笠原長時は、戦国時代の武将で信濃国守護だった人物。弓馬及び礼式に優れ小笠原流大成の祖とされる。武田信玄との戦いに破れ、上杉謙信を頼り越後に逃れた後、将軍足利義輝の弓馬の師範となった。その後、義輝が三好氏らに滅ぼされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが、逆臣に妻子ともに殺害されたといわれる。

《小笠原白牡丹の逸話》
武田信玄の侵攻により長時が松本城を追われる際、こよなく愛した白牡丹の花が敵兵に踏み荒らされるのを憂い、家臣の久根下氏に門外不出として残した。以来、牡丹は久根下家と松本城、小笠原藩があった豊津(福岡県)の菩提寺、峯高寺で守られてきたが、峯高寺の関係者が大龍寺に長時の墓参に訪れ写真を撮影したところ、不思議なことに牡丹の花のようなものが墓所に写り込んだことから、挿し木の苗を大龍寺に贈ったという。
68大龍寺小笠原長時墓.JPG

◎幽霊の足跡
幽霊が残していったという言い伝えがある本堂の床に残されたひょうたん型の窪み。床は日本の古来の建築物に見られる“うぐいす張り”。
(修学旅行生の方の見学はご遠慮ください。一般の見学希望の方は一声お声掛けください。)
70大龍寺本堂.JPG71大龍寺本堂幽霊の足跡.JPG





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