2016年05月18日

4月 賑わいの鶴ヶ城さくらまつりと、小田山探訪


花越しの人。人越しの花。
春爛漫、鶴ヶ城さくらまつり。

2016年4月某日

01県立博物館桜s.jpg04鶴ヶ城二の丸入口桜s.jpg05鶴ヶ城二の丸入口桜s.jpg
07鶴ヶ城二の丸廊下橋桜s.jpg08鶴ヶ城二の丸桜s.jpg10鶴ヶ城麟閣桜s.jpg
12鶴ヶ城荒城の月丘よりs.jpg16鶴ヶ城花見風景s.jpg23鶴ヶ城帯廊側より桜s.jpg

 天守閣再建50周年の2015年。鶴ヶ城公園に特別な想いで植樹された桜の苗木をご存知だろうか。その名も「容保桜(かたもりざくら)」。会津藩最期の城主名を冠したこの桜は、京都府庁旧本館中庭でオオシマザクラとヤマザクラの特徴を持つ新種として発見された。旧本館はかつて京都守護職であった容保公の会津藩上屋敷があった場所で、その縁で寄贈されたものだという。
 気付けば春暖の候。会津は例年より一週間ほど早い開花で、市街は「鶴ヶ城さくらまつり」の真っ最中。街は人と花であふれかえっていた。
 今日は三の丸にある県立博物館前の駐車場(無料)に車を停め、そこから歩いてまつり会場へ。駐車場脇には高遠藩藩主だった会津松平家の祖、保科正之にちなみ、長野県の伊那高遠城址から贈られたコヒガンサクラが早くも散り始めていた。ソメイヨシノより一足先に春を告げるこの桜はやや濃いピンク色で、隣接する旧陸上競技場の白いソメイヨシノとあいまって、華やかなグラデーションを描いている。
 連日の温かさで、辺りは豪華な満開状態(!)。その姿は優雅というよりある種、凄みさえ感じる迫力だ。中でも高さ20mもの石垣を這うようにしなだれかかる桜の古木と、水をたたえた深い堀に朱橋が架かる二の丸付近は、絵巻さながらの眼福。さくらまつりに訪れるなら、変化に富んだ景色が楽しめる三の丸、二の丸からのアプローチをぜひ、おすすめしたい。
 橋を渡りまずは「月見櫓」へ登り、以前、観光ボランティアの方に教えていただいた茶室「麟閣」と天守閣を望むスポット(詳しくはこちらのブログを参照)から、念願の景色を鑑賞。そこから帯郭沿いをゆるゆる歩いて本丸前の広場へ。
 天気も味方した花見日和とあって、会場は老いも若きもみな、視界を覆う絢爛な花の競演に圧倒されている。寿命を遥かに超える樹齢100年以上のソメイヨシノが1,000本残る鶴ヶ城は、見応えも充分だ。こまめな手入れなくしては生きられないソメイヨシノは、人に寄り添う桜だ。春の空に映える花と赤瓦の大天守を仰ぎながら、歴々の“桜守”たちの誇らしいまなざしを、目の前の景色に辿る。

18鶴ヶ城容保桜s.jpg06鶴ヶ城二の丸桜s.jpg26鶴ヶ城二の丸土手桜s.jpg

 「容保桜」は、賑わう公園の一角にひっそりと咲いていた。花は柄が長くヤマザクラより大輪で、香りのよいオオシマザクラ系だという。苗木とあって、枝ぶりはまだひ弱だが、素朴な中にも気品あるその華やかさは、年を追う毎に人々をまた癒していくのだろう。
 駐車場へ戻りがてら、城郭でひときわ大きな桜が根を下ろす土塁へと登ってみる。遠目から一本の巨大樹に見えた枝ぶりは、近づけば3本の花群で、ひとつの世界を形作っていた。一説では“サクラ”の名は、春に里に下りてくる山神(サの神)の依代、“御座(みくら)”に由来するという。薄紅色の天蓋から時折、夢のように降り注ぐ花吹雪は、まさに女神の降臨を祝す美しい舞台のよう。目を馳せれば、ここからは西軍が砲陣を置いた小田山も間近に見える。「明日は、あの山に行ってみましょうよ」と連れ。まつり会場の喧騒から離れ、コヒガンザクラの前でのんびりと花見を楽しむ老夫婦のふたつ背中が、ポカポカと春の陽射しに寄り添っていた。

い瀧の湯ロビー桜s.jpgと瀧の湯朝霞桜s.jpgお瀧の湯客室桜s.jpg
ね瀧の湯幻の湯桜s.jpgか瀧の湯夕食s.jpgき瀧の湯夕食s.jpgち瀧の湯語り部s.jpg
つ瀧の湯朝霞桜s.jpgほ瀧の湯十六夜の湯桜s.jpgぬ瀧の湯朝食s.jpg

桜と湯と水の風雅。
花見露天の湯ぜいたく。

 宿のラウンジから望む能舞台も、この季節は竹林と花の麗しい競演。涼やかな緑に際立つ桜は豪奢な城の姿とまた異なり、しとやかな風情がある。窓を開け放ち、うっすらと湿気を帯びた春の山気を部屋一杯に取り込んでみる。無粋な網戸のない生活が楽しめるのも、この季節ならではの風流だろう。
 夕食前には、目の前の湯川に手が届きそうな野趣満点の貸切風呂「幻の湯」で、さらなる至福を二人占め(笑)。桜の霊力か、いつもなら連れに戒められる旅先の酒量も、花見の季節はこころなしか寛容だ(笑)。
 興が乗り、久しぶりに足を運んだ民話会(詳しくはこちらのブログを参照)は、語り部の会津弁と夜桜を楽しむ人々で賑わっていた。時折、笑いも交えたほのぼのとした語り口に、長閑な春の夜が更けてゆく。
 夜半の雨か、朝露だろうか。潤いを帯びた空気の中、翌朝は愉快な釜風呂の貸切風呂「十六夜の湯」で、庄助さんよろしく朝湯を満喫。つきたての“ちから餅”と、評判のおふくろ料理をほおばりながら、これから向かう小田山歩きの歴史談話に話が弾む。山は宿からも程近い場所にある。今年の花見風呂の見納めにと、出発前にもうひと風呂浴びていくことにした。

30小田山入口桜s.jpg31小田山葦名家寿山廟跡下s.jpg34小田山西軍砲陣跡s.jpg
36小田山西軍砲陣跡より鶴ヶ城s.jpg40小田山丹波能教墓s.jpg
39小田山西軍砲陣跡から上るs.jpg44小田山物見台s.jpg47小田山物見台界隈より磐梯山s.jpg

今なお残る西軍砲陣地跡。
歴史舞台の小田山歩き。

 目的地までは宿から車で約10分。登山道入口は花見ヶ丘の小田山霊園へ向かう途中、“小田山公園”と書かれた看板の細い道を入った先にある。5台程のスペースの駐車場のそばには、畑に寄り添うように見事な桜の古木並木もある。
 案内板によれば、ここから山頂の物見台までは1,330m。「歩くとどれくらいかなぁ?」と、思案していると、運良く下山してきた方の助け舟(!)。伺えば、幸いにも30分程度とのこと。
 小田山は鎌倉から安土桃山にかけて約400年、会津の地を治めた葦名氏が本拠地の山城を置いた場所だ。戦国時代の大名は政治および生活の場である“居館”とは別に、有事の砦として山城を築くのが一般的だった。葦名氏は居館である「黒川城」(現在の鶴ヶ城)の東、約1.5km離れたこの地に小田山城を築いたという。登山道は歩きやすく整備され、沿道には桜も植樹されている。四季折々の自然と気軽に触れあえる小田山歩きは、歴史ファンならずとも楽しい気軽なハイキングコースだ。
 登り始めてすぐ「葦名家廟所」、「観音堂跡」と書かれた標柱が現れた。かつて葦名家の墓所があった場所らしい。さらに歩くと木が切り払われ、市街地の桜を一望できる見通しのよい場所に出る。西軍砲陣地跡だ。ここまでゆっくり歩いて約15分。戊辰戦争時、会津に攻め寄せてきた西軍は、この地にアームストロング砲を据え付け、天守めがけ、雨あられと砲弾を打ち込んだのだ。見れば、ここから鶴ヶ城の天守は丸見えだ。その近さにあらためて驚く。周囲に高い建物がない当時、平城であった城は格好の標的だったことだろう。史書によれば小田山はまさに“鶴ヶ城のアキレス腱”とも言える要所で、この山を奪還するために多くの会津志士が落命している。
 山頂付近にある平場には、藩校日新館を創設し会津藩の基礎を築いた名家老、田中玄宰(たなか はるなか)の墓や、北海道で北方警備に就いた丹羽能教(にわ よしのり)の墓もあった。この城跡界隈までは約30分と、まさに丁度いい運動量。標高372mの山頂となる“物見台”は、そこから尾根沿いに約150m登った先にある。「いい眺めねぇ」と、景色に見惚れる連れの言葉通り、ここからは会津市街や東山、磐梯山の素晴らしい眺望が広がっていた。
 ふと見下ろすと、北側に桜並木のある芝公園が見える。どうやら、案内板にあった「子供の森」らしい。連れと相談し、一旦、山を降りて後から足を伸ばしてみることにした。

49小田山恵倫寺s.jpg52小田山恵倫寺W桜s.jpg55小田山建福寺本堂前垂桜s.jpg
DSC04028建福寺★s.jpg58小田山善龍寺より建福寺垂桜見るs.jpg59小田山善龍寺山門垂桜s.jpg60小田山善龍寺山門からs.jpg

悲劇を悼む花の優姿。
知られざる婦女子哀話。

 小田山山麓は葦名一族の廟所をはじめ、藩士の墓所や日清戦争等の戦没者を悼む忠霊塔など、以前訪れた会津藩主松平家墓所(詳しくはこちらのブログを参照)同様、戦に殉じた人々の聖域となっている。歴史の宝庫としても知られ、蒲生氏や保科氏ゆかりの寺院も多く、そのひとつ「恵倫寺(えりんじ)」へは、登山道の途中から道が分岐している。
 1590(天正18)年、蒲生氏郷が父の菩提を弔うため創建したこの寺は、天寧寺(詳しくはこちらのブログを参照)や善龍寺とともに会津領の僧録寺をつとめた古刹だ。境内には明治時代、陸軍大将として活躍した柴五郎と、その兄で政治小説家の柴四朗兄弟の墓もある。この寺の仁王門脇にある見事なシダレザクラとソメイヨシノの2色咲き(詳細はこちらのブログを参照)は、小田山の春の風物詩のひとつだ。
 近接する「建福寺」は、1643(寛永20)年、保科正之公の移封に従い移った、いわゆる“お供寺”。ここにある天然記念物のシダレザクラと、少し離れた墓所内に聳える樹齢100年程のシダレザクラも、運良く満開状態だった。
 さらに、そこから南に約5分歩いた高台にも、同じ“お供寺”の「善龍寺」がある。戊辰戦争で唯一、消失を免れた希少な山門は、目を引く漆喰の竜宮造り。参道を彩る鮮やかなシダレザクラが、午後の陽射しに眩しい紅白のコントラストを描いていた。
 寺は戊辰戦争の悲劇として今なお語り継がれる「二十一人の墓」や、「なよたけの碑」でも有名だ。会津藩家老、西郷頼母の家族9名を含む一族21名(いずれも婦女子)は、戦での足手まといを憂い屋敷内で自刃した。頼母の妻、千重子は自らの信念を“なよたけ(細竹)”になぞらえ辞世の歌を遺している。

 〜西郷千重子辞世の句〜

 なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ

 意味/弱いなよ竹のように吹く風に連れてゆれ動くばかりの弱い女の身だが、
    そのなよ竹にはどんな強風にも曲がらない節があると聞く。
    私も節義に殉じて一死を選ぶ。

DSC04064善龍寺★s.jpg63小田山善龍寺なよ竹の碑s.jpg64小田山善龍寺西郷頼母と保科正長の墓s.jpg65小田山善龍寺自刃二十一人墓s.jpg
61小田山善龍寺山門から鶴ヶ城s.jpg66小田山子供の森s.jpg68小田山子供の森s.jpg

 墓と句碑は本堂裏手の墓域内にあった。墓碑の傍らには一族を憐れんだ人々の計らいか、明治時代を74歳まで生き、会津の汚名を晴らした頼母が後世に弔われた夫妻の墓も寄り添っている。荒ぶる時代に翻弄された人々の御霊に、静かに手を合わせる。
 そのまま歩いて駐車場に戻り「子どもの森」へ。市街地を望む谷間にファミリースキー場やキャンプ場、湿地や池など、子どもたちの自然学習の場として整備された施設は、広大な敷地に松や桜が植樹された開放感あふれる佇まい。広場を縦横無尽に走り回る、愛玩犬の姿を眺めながら、連れも「きれいな場所ねぇ」と、連発している(笑)。小田山周辺の歴史散策も含め、ゆっくりと会津の春を楽しめる「子どもの森」は、知る人ぞ知る花見の穴場スポットだ。
 人混みで賑わう花の城と、歴史を刻む春の山を訪ね歩いた今回。古く神や精霊が宿るとされた桜は、神前や仏前へ捧げる供物として「たむけ花」とも呼ばれたという。あふれんばかりに城を埋め尽くす姿といい、モノクロームの寺に楚々と彩りを挿す姿といい、桜はまさに喜びと憂い、追憶と希望、相反する想いを一身に背負う花だ。それは、私たちが日本人としての誇りを捨てない限り、これからも続くだろう。
 花吹雪が春のフィナーレを告げれば、今年もまた会津に新しい夏がやってくる。まだ見ぬ歴史を旅するように、次は喜多方あたりへも足を伸ばしてみようか。帰りの車中、尽きないそんな会話にもまたひとつ、花が咲き零れてゆく。






posted by aizuaruku at 16:23 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする